三条通りが東西の軸 - 春日大社 大和参道紀行〈7〉

参道とは、俗から聖へと移行する道である。それを何より体感できるのが、春日大社の参道である。この参道は一之鳥居より西で三条通りとなり、JR奈良駅まで続く奈良のメインストリートとなっている。今回は奈良を代表するこの参道を歩きながら、宗教都市の軸線について考えてみよう。
三条通りは、平城京の三条大路を起源とし、いわゆる「外京」の中心をなす東西路である。外京には藤原氏の氏寺である興福寺があり、また、藤原北家の邸宅である佐保殿も一説には外京にあったと推定されている。そして春日大社もまた藤原氏の氏神であり、外京が藤原氏の強い影響のもとにあったことがうかがえる。なお、「外京」とは明治時代に建築史家・関野貞によって付けられた名前で、奈良時代には左京の一部であった。
三条通りは、江戸時代の奈良においても重要な通りであった。近世の奈良は獣害を防止するための鹿垣(ししがき)によって町が囲われていたが、その出口の一つである西総門は三条通りに設けられていた。西総門から西へは暗越奈良街道がのびており、生駒山を越えて大坂へとつながっていた。

この街道が大阪平野へと至る地点にあるのが、河内国一之宮である枚岡神社だ。枚岡神社は藤原氏の祖である中臣氏の氏神であり、春日大社創建時にここから祭神が分祀(ぶんし)されたことから「元春日」とも呼ばれる。
奈良の東西主軸が三条通りだとすれば、南北の主軸になったのは上街道である。上街道は古代の上ツ道をルーツとする直線道路で、興福寺南円堂前から丹波市(現天理市)を経て桜井へと至る。
当然、三条通りと上街道の交差点は近世奈良町の中心であった。この交差点は高札場が設けられる「札の辻」であり、1888(明治21)年には道路の起点を示す「里程元標」も設置された。
三条通りの景観が時代の変遷にしたがって絶えず変化していることに比べると、春日大社境内は驚くほど変化が少ない。中世に盛んに製作された春日宮曼荼羅(まんだら)は春日社境内を描いているが、その境内構成は現在もほとんど変わらない。
ただし、いくらか変化しているところもある。例えば、多くの春日宮曼荼羅には五重塔が描かれている。これは平安時代末期に藤原忠実と鳥羽上皇によって、現在の奈良国立博物館付近に建立されたものである。しかし、平重衡による南都焼き討ちで焼失し、その後再建されるもやはり室町時代に雷火で焼失した。
春日大社を歩く際に意識したいのは、参道や社殿の方角である。三条通りから続く参道は東西に伸び、その延長上には神体山である御蓋山(みかさやま)がそびえる。東を向けば御蓋山ごしに朝日が昇るのを見ることもでき、これが春日大社の信仰軸となっているように見える。
しかし、参道は途中でぐにゃりと曲がり、二之鳥居をくぐるとそこには南向きの本社が待ち構えている。四柱の神を祀(まつ)る本殿はいずれも南向きであり、参道の方向と一致しない。「天子南面す」という中国思想の影響から社寺は南向きに建てられることが多く、春日大社本殿もその例と考えられる。
一方、「春日若宮おん祭」で知られる摂社・若宮は、御蓋山を背にして西向きに建っている。御蓋山への信仰という意味では、本社よりもむしろ若宮が中心になっているといえるだろう。

奈良国立博物館が所蔵する春日社寺曼荼羅(室町時代)では、御蓋山を背景にした春日大社と興福寺が描かれる。面白いことに、春日大社は東を上に、興福寺は北を上にして描かれ、一つの図のなかに方位の異なる図が混在している。春日大社を歩く際には、南北軸と東西軸の相克に目を向けたい。