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江戸には宿場で栄え - 長谷寺 大和参道紀行〈5〉

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長谷寺の登廊とボタン

近代は「初瀬軌道」開業

 真言宗豊山派の総本山である長谷寺は、西国三十三所の第8番札所として多くの参詣客を集める霊場である。今回はそんな長谷寺を、参道という切り口で読み解いてみよう。

 

 「隠国(こもりく)の初瀬(はせ)」と和歌に詠まれるように、長谷寺のある初瀬は、山にこもるかのような奥まった場所である。長谷寺が建つ「長い谷」は、初瀬川(はせがわ)によって削られてできた。初瀬川は下流にいくと大和川と名前を変え、奈良盆地から大阪平野、そして大阪湾へとそそぐ。長谷寺は、川を遡上した先にたどり着く聖地であった。すなわち、大和川・初瀬川は長谷寺の参道でもあった。

 

 陸に目を向けよう。広く見れば、初瀬は大和と伊勢をつなぐ伊勢街道の途中にある。参道の途中には「伊勢辻」と彫られた石碑があり、この辻を直進すると長谷寺へ、右折すると伊勢へとつながる。江戸時代の初瀬は、伊勢への「お蔭参り(おかげまいり)」をする人びとが通る宿場町として栄えた。

 

 そのにぎわいは近代になっても変わらず、1909(明治42)年には、長谷寺への参拝客を運ぶ「初瀬軌道」も開業した。初瀬軌道は、桜井駅からはじまり、約5・6キロの道のりを経て初瀬に至る。終着の初瀬駅は、当時の宿場町の西端に置かれた。江戸時代の絵図を見ると、この場所には朱塗りの大鳥居が描かれている。初瀬軌道によって運ばれた乗客は、江戸時代の参道をなぞるように長谷寺へと向かったのであろう。

基図:国土地理院空中写真

 

 ちなみに、初瀬軌道初瀬駅の土地を提供したのは、廊坊(ろうのぼう)勇という人物である。廊坊家は、長谷寺の執事長にあたる「執行(しゅぎょう)」を代々務めていた。大正時代以降には郵便局長を務める家となり、現代に至るまで初瀬の名家として町の中枢を担っている。

 

 明治時代にできた初瀬軌道はその後、12(同45)年に「初瀬鉄道」、15(大正4)年に「長谷鉄道」と名前を変える。初瀬鉄道時代には初瀬から松阪に至る路線の免許も獲得しており、三重県まで手を広げる計画もあったようだ(実現はせず)。

 

 しかし、昭和になると長谷鉄道の雲行きは怪しくなる。現在の近鉄の前身にあたる大阪電気軌道(大軌)が、長谷鉄道と並行するように路線を引き、伊勢へと向かう計画を立てたためだ。結局、28(昭和3)年に長谷鉄道は大軌に合併され、大軌長谷線となった。

 

 次いで29(同4)年には、大軌の子会社である参宮急行電鉄が開業する。参宮急行電鉄の長谷寺駅は宿場町から見て初瀬川の対岸に置かれ、駅から宿場町までは新たな参道が引かれた。この新参道は宿場町の途中で合流するかたちをとったため、合流地点より西側は門前町としては廃れてしまった。

 

 新参道が初瀬川を渡る地点には、現在も「参急橋」という橋が架かっている。名前の由来は「お参りに急ぐ」ためと言われたりもするが、参宮急行電鉄の略称である「参急」に由来すると考えるほうが自然だろう。参宮急行電鉄はさまざまな合併を経て現在は近鉄大阪線の一部となっているが、「参急橋」は「近鉄橋」にはならずそのままの名称を残している。こうしたささやかな痕跡は、まちあるき好きとしては嬉しいポイントだ。

 

 ところで、一つ気になっていることがある。長谷寺の門前に、「桜馬場」という場所がある。かつてここには桜並木があり、参拝者は木の下に牛馬をつないで寺へお参りをしていたのだという。2021年に長谷寺を参拝した際、ここには一軒の露店が出ていた。おじさんの押しの強い呼び込みにつられて、つい干し芋を買ったのを覚えている。だが、その1年後にまた訪れると、一帯は広場として整備され、干し芋の露店は無くなっていた。あのおじさんはどこへ行ったのだろうか。そんな細かなことばかり気になってしまう。

桜馬場の変化

 

◆執筆者

 重永瞬(しげなが・しゅん) 1996年生まれ。京都市出身。京都大学で地理学を学ぶ大学院生(博士課程)。「社寺の境内空間はいかに使われるか?」に関心を持ち、縁日露店の歴史について調べている。ツアー団体「まいまい京都」にて、京都府や奈良県内の寺社の参道を歩くまち歩きツアーを行う。著作に『統計から読み解く色分け日本地図』(彩図社、2022年)。

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