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ケーブル開通で盛況 - 宝山寺 大和参道紀行〈6〉

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大衆霊場として親しまれてきた宝山寺

庶民的お寺で親しまれ

 奈良と大阪のあいだにある生駒山系には、いくつもの社寺が連なっている。その一つである宝山寺は、日本三大聖天のひとつとして知られる霊場だ。戦前には「信貴山へは羽織袴(はかま)で、聖天さんへは前垂れで」と言われたように、信貴山の朝護孫子寺が格式の高いお寺と見なされる一方、宝山寺は庶民的なお寺として親しまれていた。今回はそんな宝山寺の参道史を解説しよう。

 

 宝山寺の起源は、飛鳥時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修行場にあるとされる。ただし、これは伝承上の話で、実質的には1678(延宝6)年に真言律宗の僧、湛海が伽藍(がらん)を整えたのが寺のはじまりである。江戸時代には、大和郡山藩からの庇護(ひご)を受けるなど一定の信仰を集めていたものの、大衆霊場と呼べるほどの規模ではなかった。

 

 最初の転換点になったのは、1895(明治28)年に浪速鉄道(現JR片町線)が開通したことである。これにより、住道駅から生駒山を越え、宝山寺へ向かう参拝客が増加した。そのルートにあたる八丁門峠越道には、いくつかの茶屋もできたという。

基図:国土地理院 陰影起伏図・傾斜量図

 

 さらに、1914(大正3)年には大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄奈良線)が開通し、生駒駅が開業した。それにともない、生駒駅から宝山寺に向かう参道が新たに引かれた。加えて、18(同7)年には生駒駅と宝山寺を結ぶ生駒鋼索鉄道も開通した。なんと日本最初のケーブルカーである。これ以降、宝山寺は大阪から多くの参詣者を集めることとなった。

 

 こうして大衆霊場化した宝山寺の参道にできたのが、「生駒新地」と呼ばれる花街である。その先駆けは15(同4)年にできた置屋「巴席」で、大阪南地に拠点を持つ井上市太郎という人物によって開かれた。井上はその4年後に芸妓(げいぎ)置屋の検番(事務所)を開き、「大阪党」と呼ばれる勢力をなした。

 

 一方、生駒新地には「生駒党」という勢力もあった。その中心は、生駒土地株式会社を経営する西山捨吉という人物である。西山はもともと八丁門峠越道で茶屋を開いており、大軌の開通後は新参道に移転して料理屋を営んでいた。大正時代の生駒新地では、芸妓を抱える置屋を中心とする「大阪党」と、芸妓が派遣される料理屋を中心とする「生駒党」が対立していた。生駒党の福茶屋が芸妓を置いて営業しようとした際には、置屋検番からクレームがついたこともあったという。

 

 しかし、この対立は生駒町長などの介入によって一応は終着し、21(同10)年には生駒芸妓株式会社という新たな検番が設置された。これは大阪党を中心としつつも、社長には生駒党の西山捨吉を据えた組織である。

宝山寺の参道

 

 こうして、大正後半から昭和初期に生駒新地は全盛期を迎えた。新参道には大阪の新町演舞場を移築して「生駒劇場」が開かれ、生駒歌劇団が結成された。30(昭和5)年には、生駒駅近くに「生駒舞踏場」も開かれた。当時大阪府ではダンスホールの新築が許可されていなかったため、規制のゆるい奈良県に遊興の場が移ってきたのだ。

 

 しかし、戦時下に入ると、遊興は奈良県内においても厳しく規制され、生駒新地の置屋は解散に至った。生駒ケーブルも「不要不急」として一部が休止され、生駒山上遊園地にある飛行塔は海軍の防空監視所として使われることになった。

 

 戦後、生駒新地は営業を再開するが、そのにぎわいは戦前ほどには戻らなかった。風俗営業を行っていた「料理旅館」は徐々に閉業し、住宅や一般旅館へと転換していった。

 

 ところがここ数年、参道に新たなにぎわいが生まれている。自然食やエスニック料理の店が続々と開業しているのだ。聖と俗がせめぎ合ってきた参道は今後どのように変化していくのか。非常に楽しみである。

 

 

◆執筆者

重永瞬(しげなが・しゅん)

 1996年生まれ。京都市出身。京都大学で地理学を学ぶ大学院生(博士課程)。「社寺の境内空間はいかに使われるか?」に関心を持ち、縁日露店の歴史について調べている。ツアー団体「まいまい京都」にて、京都府や奈良県内の寺社の参道を歩くまち歩きツアーを行う。著作に『統計から読み解く色分け日本地図』(彩図社、2022年)。

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