【ことなら。2025春】ぶらり散策 大和郡山 豊臣秀長が礎築いた城下町
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送に向けて活気づく大和郡山市。郡山城は1580(天正8)年に織田信長の重臣・筒井順慶が築城に着手し、85(天正13)年には豊臣秀長が大和・紀伊・和泉の3カ国100万石の領主として入城した。
秀長は「天下一の補佐役」として豊臣政権を支える一方で、城下町を整備し商工業の発展に尽力するなど今日の同市の礎を築いた。今も市内に残る秀長ゆかりの場所を訪ねた。
春岳院と大納言塚ー人望厚い「大納言」を偲ぶ
「大和大納言」と尊称され、諸大名からの人望も厚かったとされる秀長。温和な性格で豊臣政権には欠かせない存在だったが、1591(天正19)年に52歳の若さで郡山城で病没。
鎌倉時代中期創建の古刹(こさつ)で同市新中町にある「春岳院」が菩提(ぼだい)寺として知られている。
秀長の肖像画(市指定文化財)のほか、城下町箱本十三町の文献資料など当時を知る上での貴重な資料が残されている。
同寺は現在、参拝者の安全面への配慮から本堂の改修と庫裏改築の「令和の大改修」を行っており、年内には第1期工事が完了する予定だ。
同寺の南西に位置し近鉄郡山駅から西へ徒歩10分ほどの同市箕山町には秀長の墓地「大納言塚」がある。
高さ約2メートルの五輪塔は前面に秀長の法名「大光院殿前亜相春岳 紹栄居士」、背面には建立者で春岳院の僧の栄隆(えいりゅう)や訓祥(くんしょう)などと刻まれている。墓所前には名前と願い事を唱えて3回砂を通すと願い事がかなうといわれる「お願いの砂箱」がある。
毎年4月22日には秀長の遺徳を偲(しの)ぶ大納言祭が営まれる。
秀長の菩提寺・春岳院
秀長の墓所・大納言塚
源九郎稲荷神社ー郡山城の鎮守社
日本三大稲荷の一つに数えられる源九郎稲荷神社。
1585(天正13)年、源九郎と名乗る白狐が大和国の長安寺村の僧・宝誉の前に現れ、郡山城の南にお堂を建てて稲荷を祭れば城の守護神になろうと告げた。その話を聞いた城主の秀長は、城の南に洞泉寺を建立し、境内に源九郎稲荷大明神を祭らせることで城の鎮守としたと伝えられている。
1719(享保4)年に郡山城内から現在の洞泉寺町に移された。家内安全、五穀豊穣(ほうじょう)、商売繁盛、開
運招福などの御利益があるとされ、秀長ゆかりのスポットとしてこちらも押さえておきたい。
源九郎稲荷神社
箱本十三町と藍染め文化ー自治制度を制定
当時から受け継がれる代表的な文化に染め物(藍染め)がある。
現在も町名に残る紺屋町は秀長の時代に成立した職人町で、箱本十三町と呼ばれる城下町の中心を成す内町の一つだった。秀長は城下町の商工業保護の政策として税金を免除したり独占営業権を与えたりする代わりに、防火や治安維持を行わせる自治制度「箱本制度」を制定した。
箱本館「紺屋」はかつて藍染め商だった町家を再生した観光施設。藍染めに関する当時の貴重な資料が見られるほか、蓼藍(たであい)を素材とする日本の伝統的技法を使った藍染め体験もできる。当時の武士の着物として発展した藍染め産業。その復活に尽力した「ふれ藍工房綿元」でも藍染め体験を行っている。
施設の前の道路中央には郡山城のお堀から引いた水路が流れており、当時は藍染めにも利用されていたという。
そのほか当時の町家文化を伝える建物として柳1丁目の御菓子司「本家菊屋」も訪れてみたい。秀長のお茶会に菓子を献上したとされる創業400年の老舗で、現在の建物は嘉永の大地震(1854年)で倒壊した後、翌年に再建された。厳選した小豆を使った粒あんを餅で包み、きな粉をまぶした秀長命名の「鶯( うぐいす) 餅」は、郡山城の入り口近くで売っていることから今では「御城之口餅(おしろのくちもち)」として伝わる看板商品。
大河ドラマ放送を記念した期間限定パッケージも登場するなど、大和郡山市を訪ねたらぜひとも味わってみたい。
箱本館「紺屋」
ふれ藍工房綿元
御菓子司「本家菊屋」
▷箱本館「紺屋」
大和郡山市紺屋町19の1
電話:0743(58)5531
午前9時~午後5時
月曜休館
▷御菓子司「本家菊屋」
大和郡山市柳1丁目11
電話:0743(52)0035
午前8時~午後6時30分
元日のみ定休