【ことなら。2025春】祈りの場・東大寺 橋村公英 第224世別当インタビュー
奈良の大仏で知られる華厳宗大本山・東大寺。全国の国分寺の中心として平城京に建立された。743(天平15)年に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、752(天平勝宝4)年に開眼法要が営まれた。毎年多くの参拝者が国内外から訪れる祈りの場、東大寺の橋村公英(はしむら・こうえい)別当(68)にお話をうかがった。
橋村公英別当=奈良市雑司町の東大寺
修行で信頼関係 未来継承への力に
大仏造立への思い
―聖武天皇は大仏造立にどのような思いを込められたのでしょうか。
聖武天皇は即位してさまざまな困難がある中で、良弁僧正などから仏教のことを聞かれたり、本を読まれたりして、「仏教の中に大切なものがある」と考えられたのだと思います。そして、行幸の際に河内の智識寺(ちしきじ)に出向かれたり、良弁僧正に華厳経を学ばれたりしたのでしょう。
国民に対しては、人間は間違ったことをするけれども、分かち合いだとか慈悲を通して功徳という行いができるはずだと伝えたかったのではないでしょうか。また、その功徳は巡らすことができ、巡り巡ってこの国が未来へ継承され続ける力になる。仏教によって国民も万代の未来に向かっていける。(大仏開眼の)詔(みことのり)にはそういうことを書いておられるように思います。
日本に初めに伝わった仏教は、お釈迦様の教えや密教、華厳、法華を含めた把握しづらいものでした。それが整理されたのは奈良時代だと思います。六宗兼学、平安時代には八宗兼学などです。聖武天皇は、仏教が文化として根付いているかどうかで国が判断されることを平城京で感じておられたと思います。世界を視野に入れたそういった思いの中で、大仏様を造立されたのではないでしょうか。この国を治める天皇として、外交は切実な問題だったと思います。
幸福を願い続け
―その思いが今でも大仏様という形で東大寺に残されています。
戦で何度焼けても再建を繰り返した東大寺の歴史は、次の時代に功徳を巡らすことの実践だと思います。平安時代に再建した重源(ちょうげん)上人も江戸時代に再建した公慶(こうけい)上人も、先々の時代の幸福を願うという聖武天皇の思いを感じておられたのだと思います。そしてその思いは、これからの未来にも反映させていかねばならないと思います。
「先々の時代の幸福を願う聖武天皇の思いは未来にも反映させていかねばならない」と話す橋村別当=同
連綿と続く修行
―二月堂の本尊・十一面観音菩薩に人々の幸せを祈る修二会(お水取り)は、奈良時代から一度も途切れることなく営まれてきました。なぜそれほど長く続いてきたのでしょう。
大変な行だからこそ続いてきたことは大きいと思います。あらゆることが祈りという言葉で表現されますが、それは必ずしも確かなものではありません。人と人は両方から関係を育ててこそ信頼が成り立つように、祈りが支えや力になるためには「祈る」と「祈る人・場所」の信頼関係が必要なのではないでしょうか。勉強や修行を続ける中で、「その人」と「祈り」との信頼が育ちます。そして、祈ることを通してその先にどんなことができるかを考え始めます。実際に何かできることがあれば、それが祈りとのさらなる信頼関係をつくります。
堂内の板に体を打ち付けて懺悔(さんげ)し、人々の幸せを祈る修二会の五体投地=二月堂
修二会の本行を前に境内の諸堂を巡拝する東大寺の僧侶ら
僧侶の立場から言えば、お釈迦様の教えは祈りから始まったわけではありません。人が生きる中での苦しみをどのように解消していくかという問いから始まり、苦しみの原因を修行や瞑想から見つけられ、教えとして広まっていったのです。
僧侶と祈りの関係は、階段で例えると、1番上まで行けなくても、2段目まで登れたことを頼りとして、その先のことをいくつかの教えをもとに「祈る」ことができるということです。祈りに対する信頼をお釈迦様が導き出されたのです。修二会も密教や禅宗の修行も、祈ることへの信頼から続いているのだと思います。
奈良は千年以上も歴史が続いている場所ですから、その重み(祈りへの信頼)は秀でているような気もします。祈ることへの信頼を感じさせてくれたり、育ててくれたりする風土が深い場所だと感じます。
祈りが支えにも
―コロナ禍や地震などの災害に対して祈ることをどう考えられていますか。
祈りは形のないものですが、祈ることが自分自身の行動につながり、またそれを見た人が何かをする力になっていきます。関わり方によって力にもなり、支えにもなります。だから祈ることは備えることにもつながるのではないでしょうか。
「祈り」について語る橋本別当=同
仏の子になる心
―近年はインバウンドで海外の方が多く東大寺を訪れていますが、どのようにご覧になっていますか。
コロナ禍の頃は南大門からの参道に人が一人もいませんでした。今は多くの方が歩いておられます。たくさん方が仏様の前にいらっしゃるのはありがたいことだと思っています。皆さん、見よう見まねで手を合わせたりしておられますね。それが宗教的な思いを持っての行動かは分かりませんが、どの方も仏の子になれる心を持っておられるのだと思います。
日常と違う感情
―訪れたくなる奈良の奥深さや魅力はどのようなところでしょうか。
電車やバスを降りたら、趣がある大きな木造建築があることで、日頃のしがらみを忘れ、日常とは違う感情や心が出てくるのではないでしょうか。春日の神鹿と関わる野生の鹿も命と触れ合う重みや深みを生んでいると思います。奈良も広いので時間があれば、奈良公園周辺だけでなくいろいろな所に足を伸ばしていただけたらと思います。