【ことなら。2025春】古事記の世界に触れる史跡めぐり - 奈良市編
垂仁天皇にまつわる物語
二つの愛に揺れた皇后
<サホビメの悲劇>
第11代に当たる垂仁天皇に皇后として迎えられたサホビメの悲劇は、二つの愛に揺れる女性の心理を描き、古事記を代表する叙情的な物語として知られる。
サホビメには同母の兄、サホビコがいた。垂仁天皇とは従兄弟の関係で、皇位への野望があったとされる。「夫(せ)と兄(いろせ)といずれか愛しき」。兄の問いかけにサホビメの答えは「兄」だった。「私を本当に愛しいと思うなら2人で天下を治めよう」。
短刀を渡されたサホビメは、膝枕で眠る天皇を刺そうと3度振り上げたが思い切れない。やがて頬を伝った涙が
天皇の顔を濡らした。「佐保の方からにわか雨が来て顔を濡らし、小さな蛇が首に巻きついた。この夢は何のしるしか」。サホビメは計画を打ち明け、天皇の軍勢がサホビコに差し向けられた。
兄弟や兄、妹がペアになって国を治める統治はヒメヒコ制と呼ばれ、邪馬台国の時代にも卑弥呼を補佐する「男弟」がいた。
垂仁天皇の軍勢を迎えたサホビコは稲を積んだ稲城(いなき)にこもって戦い、兄を慕うサホビメもいつの間にかそこにいた。お腹には天皇の御子。戦乱の中で出産したサホビメは、誕生したばかりの皇子を城外に置き、兄と共に死を選ぶ。
天皇は何とかサホビメを取り戻そうとするが果たせなかった。
狭岡神社(奈良市法蓮町)
奈良市法蓮町の狭岡神社。鳥居から続く長い石段の脇にサホビメゆかりの池がある。「鏡池」と呼ばれ、サホビメはこの池のほとりで垂仁天皇と恋に落ちたという。下水道工事で水が枯れ、縁も分からないほど荒れ果てていたが、保水工事でよみがえった。
佐保の地に鎮座する狭岡神社=奈良市法蓮町
サホビメの伝承が残る狭岡神社の鏡池=同
狭岡神社の境内には「狭穂姫伝承地」の石碑がある=同
万葉集に現れる佐保の地は、同神社のある法蓮町から法華寺町付近。サホビメはこの辺りに住み、池に姿を映していたのかもしれない。
【狭岡神社】
奈良市法蓮町609
近鉄新大宮駅から徒歩約20分。藤原不比等の創始と伝えられる。
埴輪の起源-野見宿祢の提案で殉死禁止
サホビメの死後、新たな皇后としたヒバスヒメが亡くなったとき、殉死の風習に心を痛めていた垂仁天皇は、野見宿禰(のみのすくね)から人を埋める代わりに埴輪を並べてはどうかと提案を受けた。喜んだ天皇はこの提案を入れて殉死を禁止、埴輪の起源になったとされる。
野見宿禰は現在の葛城市に住んでいたとされる當麻蹶速(たいまのけはや)との天覧相撲で有名。當麻蹶速は並ぶ者のない怪力で知られ、力比べに呼び出されたのが野見宿禰だった。天覧相撲は熱戦の末に野見宿禰が勝ち、この試合が相撲の始まりとされる。葛城市は相撲館「けはや座」を設けて當麻蹶速の顕彰に取り組んでいる。
殉死から埴輪による葬送へ。ヒバスヒメの陵(みささぎ)は奈良市山陵町の佐紀陵山(みささぎやま)古墳(4世紀後半)とされ、大正時代の修造記録が残る。埴輪に囲まれた方形壇の中央に竪穴式石室があり、石棺のような突起を持つ天井石で覆われていたという。
考古学の世界で人物埴輪や馬形埴輪が登場するのはもう少し後の時代だが、埴輪使用の定型化と佐紀古墳群には深い関係があるのだろう。
霊力の実を求め異界へ
<常世の国ータジマモリの悲劇>
垂仁天皇の物語には、陵墓にかかわる二つの出来事が登場する。一つは常世国(とこよのくに)に渡ったタジマモリの悲劇、もう一つは埴輪祭祀(し)の始まりだ。
霊力を秘めた「時じくの香(かく)の木の実」を求め、垂仁天皇はタジマモリを常世国に派遣する。常世国は海のかなたにあるとされる仙境。大国主神と国づくりを進めたスクナビコナが渡ったほか、神武天皇の兄、ミケヌノミコトも旅立った。いずれも帰らず、死後の世界をイメージさせる。この世に戻ったのはタジマモリただ一人だ。
帰ってきたタジマモリは、その実と枝を抱えていた。日本書紀によると、出発から10年。垂仁天皇はすでに亡く、墓前に枝を供えたタジマモリは、泣き叫んで死んだという。時間の概念を越えた異界は浦島説話にも共通する。
「時じくの香の木の実」はタチバナとするのが定説だ。ミカン科の常緑樹で、冬も枯れることなく実をつけるこの木に古代の人々は特別な生命力を感じたのかもしれない。万葉集にも「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹」と歌われた。
垂仁天皇陵(奈良市尼辻西町)
宮内庁が定める垂仁天皇陵は、奈良市尼辻西町の宝来山古墳。4世紀後半ごろの前方後円墳で、東側に寄り添う小島がタジマモリの墓とされる。
江戸時代の「大和名所図会」にも「蓬莱山」とされ、濠(ほり)に囲まれた全長約230メートルの墳丘は、不老不死の仙境と映ったようだ。
濠に囲まれた垂仁天皇陵とタジマモリの墓とされる小島=奈良市尼辻西町
【垂仁天皇陵】
奈良尼辻西町
近鉄尼ケ辻駅から西へ約700メートル
太安万侶の墓誌 茶畑から世紀の発見
古事記編さんのロマン語る貴重な資料 国宝へ
古事記の編さん者として知られる太安万侶の墓は奈良市此瀬町の茶畑の一角にある。1979(昭和54)年1月、木の植え替え作業をしていた竹西英夫さん(故人)が偶然発見した。
遺骨を納めた木箱の周りにびっしりと炭を詰めた火葬墓で、連絡を受けた県立橿原考古学研究所が調査、木箱の板材に張り付いた銅板の墓誌に「太朝臣安萬侶」の文字がはっきり読めた。
畑の傾斜がきついためユンボが入らず、木の植え替えを手作業で行っていたのが幸いした。遺骨を納めた木箱が腐り落ち、周囲に詰められた木炭だけが空洞状に残っていた。
墓誌は長さ約29.1センチ、幅約6.1センチ。被葬者名の他にも位階や生前の居住地など41文字が刻まれていた。そこから分かる太安万侶の「住所」は平城京の左京四条四坊。現在のJR奈良駅付近に当たる。太安万侶の出身地は現在の田原本町付近とする説が有力だが、大臣クラスの役人だった安万侶は、公共墓地のような場所に埋葬されたらしい。
墓誌は国の重要文化財に指定されていたが、今年3月に開かれた国の文化審議会で国宝に指定するよう答申された。
出土地周辺は国史跡として整備され、見学路も設けられている。見学路が急傾斜で老朽化も進んでいるため、県が再整備を計画している。
再整備が計画されている太安万侶墓=奈良市此瀬町
【太安万侶墓】
奈良市此瀬町
JR奈良駅、近鉄奈良駅から田原方面行きバス「田原横田」下車、徒歩約20分