宿場町の軸をも一変 - 天理教会本部 大和参道紀行〈3〉
聖地と都市の関係注目
奈良県で最も長いアーケードがどこにあるか知っているだろうか。意外なことに、それは奈良市ではなく、天理市に存在する。JRと近鉄が交わる天理駅を出ると、そこから約1キロにわたって「天理本通り商店街」のアーケードが続く。そしてその先には、天理教教会本部が構えている。すなわち、ここは参道なのである。
駅前にはカラオケや居酒屋が並んでいるが、教会本部に近づくにつれて、神具店や装束店など天理教関係の店が増えていく。毎月26日の月次祭や1年ごとの大祭、教祖誕生祭など、天理教の行事の際には黒い法被を着た人々が商店街を埋め尽くす。
天理教の開祖は、大和国山辺郡西三昧田村の庄屋の家に生まれた中山みきである。1838(天保9)年、長男の病気平癒のために山伏を招いて祈祷(きとう)をしてもらっている最中、突如としてみきが神の啓示を受けたことが立教の発端とされている。みきはその後、安産祈願や病気平癒によって信者を増やしていった。
教会本部がある場所には、かつて中山家の屋敷があった。この場所は「ぢば」と呼ばれ、天理教の神である天理王命がはじめに人間を創造した場所とされる。信者が増えるにつれて「ぢば」への参拝者も増え、それにしたがって参道も発達していった。現在では、商店街のある東西の道が天理の軸となっている。
商店街がある天理市中心部は、もともと「丹波市」という町だった。丹波市は、奈良から桜井を結ぶ上街道の宿場町である。すなわち、元来の町は南北の軸に沿って形成されていたのである。天理教の発達は、町の軸をも変えてしまった。
ただし、天理教以前の東西路には何もなかったわけではない。教会本部のさらに東には、豪族・物部氏の氏神として知られる石上神宮が存在する。天理本通り商店街のある道は、江戸時代には「布留街道」と呼ばれる石上神宮の参道であった。参道の起点には、1871(明治4)年まで石上神宮の鳥居が置かれていたという。教会本部ができたことで、すっかり参道の目的地が変わってしまったわけである。
天理の町で目を引くのは、なんといっても教会本部を取り囲む瓦屋根の巨大建築群である。この建物は「おやさとやかた」と呼ばれ、8町(約873メートル)四方を一つの建物で囲うという壮大な計画である。天理教2代目真柱、中山正善の指示のもと、1955(昭和30)年から建設が進められた。設計にあたったのは、東京帝国大学建築学科の教授であった内田祥三と、同学科出身の天理教信者、奥村音造である。
天理教において「ぢば」には特定の向きはないとされ、「おやさとやかた」も東西南北四面とも同じようなデザインで建設されている。ただし、道路は明らかに南側が一番立派になっており、天理教の事務を担う教庁も南側に置かれている。毎年夏に開かれるイベント「こどもおぢばがえり」でも、南側の大通りでパレードが開かれていた(コロナ禍以降は中止)。
南参道は形態としては壮麗だが、普段の人通りはさほど多くはない。普段から人がよく通るのは、天理本通り商店街のほうである。南参道が正面入り口だとすれば、商店街は通用口といえるだろう。
「おやさとやかた」の建設予定地には商店街も含まれており、計画通りに建設を進めると、一部の店舗は立ち退きとなってしまう。この計画については、必ずしも教団と住民との間で合意が形成されているわけではないようだ。こうした土地確保の問題に加え、建物の建設および維持管理にかかるコストの問題もあることから、2005年以降は新たな「おやさとやかた」の建設は進められていない。
天理教という巨大宗教の存在は、一宿場町であった丹波市の姿を一変させた。聖地と都市の関係は、今後どのように変わってゆくのだろうか。
◆執筆者
重永瞬(しげなが・しゅん)
1996年生まれ。京都市出身。京都大学で地理学を学ぶ大学院生(博士課程)。「社寺の境内空間はいかに使われるか?」に関心を持ち、縁日露店の歴史について調べている。ツアー団体「まいまい京都」にて、京都府や奈良県内の寺社の参道を歩くまち歩きツアーを行う。著作に『統計から読み解く色分け日本地図』(彩図社、2022年)。