歴史文化

近代技術の実験場に - 橿原神宮 大和参道紀行〈4〉

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橿原神宮外拝殿と畝傍山

一連の「神都都市計画」

 奈良県で有名な社寺は、その多くが古代に創建されている。そんな中、一つ異質な来歴を持つのが、奈良盆地南部にある橿原神宮である。奈良県では春日大社に次いで2番目に初詣の参拝客が多い社寺であり、毎年2月11日に行われる紀元祭には多くの人びとが訪れる。

 

 橿原神宮は1890(明治23)年に、初代天皇である神武天皇を祀(まつ)る神社として創建された。この年は大日本帝国憲法が公布された翌年であり、近代国家として歩みはじめた日本を思想面から支える役割が期待されていた。

 

 創建当時の橿原神宮は現在よりも小さく、おおむね現在の北神門・南神門の内側が旧境内地であった。橿原神宮が現在のような広大な境内を持つようになったのは、1940(昭和15)年以降のことである。

 

 1940年は近代日本にとって重要な年であった。当時の日本では、『日本書紀』において神武天皇が即位したとされる年を基準とした「皇紀」が西暦と併用して用いられていた。1940年は皇紀2600年という節目の年であり、日本全体でそれを祈念した祝賀行事が行われていた。

 

 神武天皇を祀る橿原神宮は、この紀元二千六百年記念行事の中心となる神社であった。神社では行事に合わせて境内の拡張が計画され、その設計には建築や造園など諸分野の技師が携わった。これによって現在の境内構成がつくられたのだが、そのデザインは参道という観点から見ても面白い。

 

 創建当時は本殿から東側に一本の参道がまっすぐ伸びていたが、大正時代には表参道が現在のルートに付け替えられ南神門が置かれた。さらに、1940年の拡張では北神門が設けられ、北と西に新たな参道が引かれた。各参道はまっすぐではなく、折れ曲がりながら拝殿へと至る。

 

 拡張事業における境内の設計は、内務省神祇院技師であった田阪美徳が担当した。田阪は、1937(同12)年に執筆した「神社の参道」という論文において以下のような記述を残している。

 

 「参道の路線は直線たるあり曲線たるあり。(中略)直線型は端厳、剛直なれども単調、曲線型は幽玄、清雅なれども過ぎたるは雅致冗漫に至る。広前附近と入口広場附近は直なるを可として途中幽曲の曲線を交ふるを理想とせんか」

 

 田阪によれば、入り口から社殿が見通せてしまう直線の参道は望ましくなく、直線と曲線を交えて境内をより広く見せることが重要なのだという。橿原神宮の参道は、こうした田阪の思想に基いて設計されたものと言えるだろう。

北参道の曲線

 

 折れ曲がりを持った参道は、1920(大正9)年に創建された明治神宮においても導入されている。田阪美徳は、明治神宮の造営事業にも携わった。明治神宮の造営においては、日本初の林学博士として知られる本多静六を中心として、社叢林を人工的に造る計画が立てられた。橿原神宮の社叢林も、全国からの献木によって造られた人工の森である。橿原神宮の造営は、明治神宮で培われた技術を発展させて行われたのである。

 

 橿原神宮の拡張は、神社のみならず周辺一帯の都市計画とともに進められた。神社の東側には、「橿原道場」として運動場や野外公演堂などが造られた。明治神宮で言えば、神宮球場がある外苑に相当するような場所である。橿原神宮と橿原道場のあいだには一本の道路(参拝道路)が通っているが、この道路には、自動車が曲がりやすい曲率を持った緩和曲線の一種であるレムニスケート曲線が採用されている。

基図:地理院地図Vector

 

 また、それまで近隣には大阪電気軌道と大阪鉄道という二つの路線があり駅が離れていたが、両者は統合されて現在の橿原神宮前駅となった。こうした一連の事業は「神都都市計画」と呼ばれた。

 

 神社というと、何かと「伝統」と結びつけられることが多い。しかし、神社はときに近代的な技術の実験場ともなる。参道を歩く際には、そうした「新しさ」にも目を向けたい。

 

 

 

◆執筆者

 重永瞬(しげなが・しゅん) 1996年生まれ。京都市出身。京都大学で地理学を学ぶ大学院生(博士課程)。「社寺の境内空間はいかに使われるか?」に関心を持ち、縁日露店の歴史について調べている。ツアー団体「まいまい京都」にて、京都府や奈良県内の寺社の参道を歩くまち歩きツアーを行う。著作に『統計から読み解く色分け日本地図』(彩図社、2022年)。

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