大和美酒之記8/最古記録は奈良時代 - 副産物のかす漬け【奈良漬】
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奈良の名産品「奈良漬」。野菜や果実を酒かすに漬けたかす漬けの一種で、奈良の酒造りの副産物としてその歴史を歩んできた。
万葉歌人の山上憶良は「貧窮問答歌」で「糟湯酒(かすゆざけ=酒のかすを溶いた湯)をすすり」と詠んでいる。酒かすは奈良時代(8世紀)には存在した。
当時の都、奈良市の平城京の長屋王邸跡では「加須(かす)津毛瓜 醤(ひしお)津毛瓜 醤津名我 加須津韓奈須比」と記した木簡が出土。毛瓜は冬ガン、名我はミョウガ、韓奈須比はナスのこと。かす漬けやひしお漬けをしていたことを示し、奈良文化財研究所の馬場基埋蔵文化財センター長は「かす漬けの最古の記録とされる」と話す。
平城宮跡出土の木簡にも「滓漬(かすづけ)」と書かれたものがある。甕(かめ)に付ける札で「天平十五(743)年四月」の年紀がある一方、出土したごみ穴は天平19(747)年ごろのものだった。木簡の廃棄までに約4年の期間があり、馬場さんは甕で長期間漬け込む古漬けをした可能性を指摘する。
当時のかす漬けの目的は保存か食味かは分かっていないが、「長屋王邸で文字で記録される以前から成功や失敗を繰り返して脈々とかす漬けは作られていたはず」と馬場さん。「当時は高級品だったのではないか」とも推測する。
奈良漬の名が初めて登場するのは「山科家礼記」の明応元(1492)年11月3日条。奈良―平安時代に醸造されたのは濁酒だったが、室町時代ごろに酒造りの拠点が奈良の寺院へ移ると、透明な清酒につながる「南都諸白(もろはく)」が誕生。醸造技術の進歩で生まれた酒かすを使って現在に近い奈良漬も作られるようになった。
奈良漬が全国に広まったのは慶長年間(1596~1615年)とされる。奈良の中筋町の漢方医、糸屋宗仙が白ウリを酒かすに漬けて「奈良漬」として売り出した。大坂の陣で徳川家康に献上して気に入られ、宗仙は江戸に呼ばれて幕府の奈良漬の御用商人となったという。
江戸時代には酒造の中心地が奈良から灘(兵庫)や伏見(京都)などへ移行。かす漬けは各地で生産されたが、それらも全て奈良漬と呼ばれた(「本朝食鑑」)。
現在、県内の奈良漬事業社は約30社で、製造から販売までを手掛けるのは5社程度。奈良市の森奈良漬店は1869(明治2)年の創業当時の伝統的な製法を継承する。使用するのは野菜・果実と塩と酒かすのみ。約1年~1年半かけて、塩漬けした野菜を新しい酒かすに漬け替える工程を何度も繰り返して製造している。
森麻理子社長は「奈良漬をはじめとした発酵食品は人と自然が共に生きた証」とし、「奈良で大事にされてきた伝統的な作り方は変えず、100年先、1000年先も残したい」と語る。
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