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極楽浄土考 生駒市の古刹・長福寺が体現する浄土とは - 大和酒蔵風物誌・第6回「菊司 菩提酛」(菊司醸造)by侘助(その3)

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『往生要集』から読み解く極楽浄土

 では、当時の人びとにとって極楽浄土とはどのようなものであったのか。平安時代中期の僧源信は『往生要集』のなかでそのイメージを詳述している。985(寛和元)年成立の『往生要集』は、その後の浄土信仰の高まりに決定的な影響を与えた著作で、法然や親鸞はこれに基づいて自らの信仰を育んだ。

 

 源信は、そこで、最初にひとが業としてとらわれている六道(地獄、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道)の記述から始めて、次に悟りを得たひとが六道から脱して行くことのできる浄土を描き、最後に念仏を一心に唱えれば極楽往生できると説く。そのなかでかれは浄土をどのように描写しているか。著述はかなり詳細にわたっているので、以下大意を要約する。

 

復原飛天図(部分)

 

 浄土の世界は大地が瑠璃でできていて、道の境界には金の縄が敷かれている。全体が輝き、麗しく清浄、土地は平坦で高低差がなく、広さも無限、そして無数の香の香りが辺りに満ちている。光はあまねく行きわたり、太陽や月、灯火が必要ない。寒暖もなく、春夏秋冬の季節もない。吹き渡る微風によって寒暖は自動的に調整されている。

 

 そこにはさまざまな宝玉からなる5百億の宮殿や楼閣が建ち並び、周りには多くの天人が飛び交い、伎楽を奏で、鸚鵡(おうむ)や迦陵頻伽(かりょうびんが)など様々な鳥たちが雅な声で歌う。その近くには湯浴みのできる池があって、その底には黄金や白銀、瑠璃、水晶が敷きつめられている。池のほとりには青、黄、赤、白の蓮があって、それぞれ花と同じ色の光を放ち、その花弁のなかにはそれぞれ菩薩や仮仏が佇んでいる。

 

復原迦陵頻伽図

 

 臨終を迎えた修行者のところへは、阿弥陀如来が観音菩薩や勢至菩薩など多くの聖衆を従えて迎えにやってくる。そうして浄土に導かれた修行者は、池の蓮が開くのと同時に花弁のうえに生まれ変わる。身体は紫がかった金色となり、宝玉で飾られた美しい衣をまとい、指輪、腕輪、宝冠などで厳かに飾られている。周りには自分と同じように生まれ変わった仲間が大勢いて、多くの菩薩たちが空中でお経を詠んだり、座禅をしたり、阿弥陀如来を礼賛したりして、心の赴くままに遊び楽しんでいる。その遥か彼方の広大な池の中央には、阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を左右に従えて宝玉の蓮に座っている。

 

 

本堂柱に描かれた来迎図(下)と復原図(上

 

極楽は何でもかなうドラえもんのポケットなのか

 長福寺の彩色絵がこのような情景をねらって描かれたのは明らか。来迎図、天女、迦陵頻伽、三千仏、楽器、いずれも源信の綴る浄土を表す重要なモチーフである。今は当時と入れ替わっているものの、基壇に座る仏様たちも、おそらく、浄土を表現するものだったにちがいない。現在の本尊は江戸期につくられたというが、当時の住職がそれを阿弥陀仏としたのも、浄土空間にしつらえられたこの本堂の性質に合わせてのことと推定される。

 

 それにしても源信の描く極楽浄土の何と不可思議なこと。先の要約文でも散見されるが、浄土では土地の高低差がなく、広さも無限、光が行きわたり寒暖の区別もないから、明暗も四季の移ろいもない。加えて、浄土では寿命が永久なので生老病死の苦しみがなく、思ったことと現実が一致しているので愛別離苦(あいべつりく)もなく、皆が慈悲の眼をもっているので怨憎会苦(おんぞうえく)もない。

 

三千仏復原図

 

 さらに、浄土にいる人びとには特殊な神通力があって、見たいもの、聞きたいものをいながらにして体験できたり、過去のことも現在のことであるように知ることができる。だから、昔縁のあったひとたちを、親でも、子でも、恩あるひとでも、意のままに浄土に連れてきて会うこともできる。行きたい場所、行きたい時代を瞬時に引き寄せる神通力なんて、まるでドラえもんみたいで、なかには、食事を取ろうと思えば、目の前に七宝でつくられた机が現れ、そこに御馳走が山と盛られているなんていう記述もあるほど。これはまさにドラえもんのポケットではないか。

 

 現実とかけ離れているからこその浄土だと考えれば、こんな空想のような話がでてきてもさほど不思議ではない。しかも、『往生要集』は浄土の素晴らしさを謳うための著作だから、それを読む人びとが憧れるような描き方をしなければいけないのもわかる。実際、源信の浄土は、かけ離れているにしても、空想の部分に現実が混在していて、「ポケット」として現世でのかなわぬ欲望を満たす空間たろうとする。仏教説話によくみられる超現実的な筋立てと同じで、この著作もそのひとつとみなすことも十分できる。

 

内陣天井復原図

 

 ただ、かれの記述には独特のところがあって、読んで想像しているあいだ妙な浮遊感を覚えてしまう。阿弥陀如来や菩薩、飛天が浮遊するのは当たり前だとしても、ここでは他のいっさいのもの、たとえば宮殿や楼閣、池、果ては大地や道までもがあたかも宙に浮いているかのような印象を受ける。そこには現実なら必ずあるはずの重力が決定的に欠けている。人間関係さえも対立がないから愛憎のない宙吊り状態で、欲望の実現にあたっても現実には必ず障碍(しょうがい)になるはずの摩擦がない。

 

 思ったことがすべてかなうそのありさまは、あたかも生まれ変わった修行者がまとうことになる金色の身体のようにつるつる、悪いいい方をすればのっぺりしている。重力や摩擦力などあらゆる抵抗力を免れた世界がそこにあって、仏やひとや物だけでなく、欲望さえもが宙を浮遊しているようにみえる。

 

 

極楽に浮遊する欲望 源信が描かなかった「他者」の失われた浄土 

 ジル・ドゥルーズならば、この状態を「他者の構造」の消滅の始まりと指摘するだろう。このフランスの哲学者によれば、「他者は知覚領域の全体を条件付ける構造」であり、「知覚を可能にするのは自我ではなく、構造としての他者である」(『意味の論理学』、以下引用も同著から)という。

 

 私が対象を知覚するとき、他者はそれを別の視点から知覚する。「私が見ることのできない対象の部分を、私は同時に他者に見えるものであると考える。したがって、私がその隠れた部分に到達するためにひとまわりすると、対象の裏側にある他者と出会い、対象の全体を予見できるようになるだろう」。私からは対象の一面しかみえないが、その裏面や側面を他者がみることを想定すれば、私はそれを全体として知覚することができる。つまり、他者が知覚領域の構造を構成することではじめて、私は、対象が今、ここに存在することを知覚することができる。あるいは、対象を特定の時間と空間に固定化するといい換えてもいい。

 

上記復原迦陵頻伽の本堂にある柱絵

 

 では、この構造としての他者がいなくなるとどうなるか。他者の視点があるおかげで、対象が時間軸と空間軸に固定されていたのだとすれば、それは時間からも空間からも解放されるだろう。「他者が消えるとき、日々だけが立ち直るのではなく、事物も立ち直る。事物が他者によって結ばれることがなくなるからである。」とドゥルーズは「立ち直る」という表現を用いるが、空間における重力や時間における持続力から解き放たれるという意味では、そのとき対象はまさに時空を浮遊しはじめる。

 

 源信の浄土にあって、あらゆる抵抗力から解放された事物たちはちょうどそのような状態にあるように映る。鐘楼や大地でさえも浮遊しているようにみえるのは、他者の知覚構造が希薄化して、それらが「立ち直」りはじめているからにほかならない。その意味では、極楽往生は他者構造の喪失とともに遂行される。そこでは、浮遊する阿弥陀如来も、菩薩たちも、他の修行者たちも、もはや「他者」を構成せず、「立ち直る」事物と何らかわらない存在と化している。思えば確かに、ひとは必ず孤独のうちに死ぬ。

 

 それでも、源信は、意図的だったかどうかは別にして、極楽往生における他者構造の喪失を最後まで書き切らなかった。というのも、その描写から一目瞭然のように、欲望に関してだけはまだ現世の名残りに引きずられているからだ。

 

 溢れる財宝や豪奢な装飾品に囲まれ、快適な明るさと気温のなかで、思うがまま時空を移動し、好きなときに好きなだけ御馳走を食べることができる。その欲望はすでに浮遊しはじめているが、しかし、その対象はいまだ現世のほうに向かっている。過酷なこの世で果たせなかったことだからこそ、それを欲望する。

 

 だが、現世において、欲望は、その対象を別の立ち位置から同じように望む他者がいるからこそ欲望たり得たのではなかったか。ひとたびその他者がいなくなってしまえば、「欲望もまた立ち直る。欲望は、対象とも結び付いていず、他者によって表現される可能な世界とも、もはや結び付いていないからである」とドゥルーズがいうように、欲望もまた対象を失って宙空を浮遊する。

 

上記復原三千仏の本堂にある元絵

 

 

古色に沈む現本堂に体現された極楽浄土

 そう考えると、源信が描かなかった完全な浄土は、そんなにキラキラしていない。極楽というその名が示すように、そこには楽しみの極みがあるというのがかれの主張だが、たとえば寒暖の無い気候のなかで楽しさを感じることができるだろうか。思うことが現実になるのが当たり前だとすれば、それをいちいち楽しいと思うだろうか。金銀宝玉を高価で貴重と価値づける基準がなければ、それに囲まれたところで何の感情もわかないのではないか。

 

 そもそも悟りを拓くというのは、ありとあらゆる欲望から解放されることを意味していなかったか。それがまさに対象を失って浮遊する欲望だったとすれば、浄土とは、つまるところ、苦もなければ、かといって楽もない、かなり無味乾燥たる世界といわざるをえない。それは、もはや、極楽というよりもむしろ無の状態に近い。

 

 源信は極楽浄土を描くにあたって、様々な仏典にある記述を参考にしたと述べているが、その末尾にこんな一文を添えている。「いまここで、十の楽しみを列挙して浄土をほめ讃えたいと思う。が、もとよりこれは、一本の毛をかの大海に浸すがごときものである」。

 

 無限の属性をもつ浄土のすべてを描写するのは不可能で、ここで自分が書くのはそのごく一部にすぎない。しかも現世の人びとにわかりやすく敷衍(ふえん)した情景を描くので、そのところどころで現実を類推させる記述の助けを借りなければならない。源信が自分の描いた浄土の向こうの「大海」に何をみていたかは知るよしもない。ただ、かりにかれが極楽往生が他者構造の喪失であることを直観的に意識していて、それをこれ以上言語化することの困難を認識していたのだとすれば、たいした慧眼といわなければならない。『往生要集』の言説のそこここに漂う浮遊感は、そんな想像をわれわれに促してやまない。

 

現在の本堂の天井

 

 確かに、長福寺本堂に描かれたキラキラした彩色絵は、そんなふうにイメージされた当時の極楽浄土だったとしても、源信が暗示した「大海」の浄土はけっしてそうではなかった。他者の構造が失われた世界には、光も闇もなく、熱くも寒くもなく、愛憎も苦楽もなく、およそ時間も空間もなく、対象を失った欲望だけが浮遊している。

 

 こんな想像をすると、実は、その彩色絵が経年劣化や煤によって古色に沈み込んでいる今の本堂のほうがよほどこれに近いのではないかと思う。極彩色の絵具が混ざり合えば名付けようのない色と化してしまうように、そこでは、歳月が他者構造喪失の役割を果たして、原色をとどめない不思議な空間をつくりあげている。浮遊する阿弥陀如来や飛天たちでさえ部材の古色に溶け込んで混然一体となる様は、他者の痕跡さえも失った浄土の果てとするにむしろふさわしい。

 

 この際、ダークブラウンのフィルターは、だから、単にノスタルジーを演出しているだけと思わないほうがいい。過ぎ去った年月がつくりあげたその相貌は、別の視点からすれば、あの「大海」の奥深くにある無の浄土にも比することができるのだから。生駒の俵口の丘のうえのこの小さなお寺に改めて身を置いて、そんなことを考えた。(その4に続く)

 

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