彩色復元 長福寺(生駒市)によみがえる極楽浄土の世界 - 大和酒蔵風物誌・第6回「菊司 菩提酛」(菊司醸造)by侘助(その2)
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生駒市の長福寺を訪ねて
生駒には、宝山寺や往馬大社、暗(くらがり)峠など、生駒山に育まれた文化が多々あるが、今回はぜひ訪れたい場所があった。それは、俵口にある長福寺(奈良県生駒市俵口町)という小さなお寺。菊司醸造から国道を北に走って阪奈道路を越えたすぐのところにある。
一般的にはあまりというかほとんど知られていないが、昔はお城も構えられていたという高台にひっそりと佇むこのお寺の歴史は古く、言い伝えによると、聖徳太子が国家安康を願ってこの地に毘沙門天を祀ったのが始まりとされる。
それから百年以上経って、平城京から聖武天皇が西の空に金色に輝く龍が昇っていくのをみて調べさせたところ、このお寺の池からであることがわかった、という話も残されている。古いお寺の常として盛衰を重ねたのはこことて例外でなく、その後文献上の消息がしばらく途絶えた後、鎌倉時代の名僧叡尊が1255(建長7)年に弟子たちに命じて中興したとの記録があり、現在の本堂はこのとき再建されたものだという。
長福寺本堂(重要文化財)
貴重な寺宝伝えた本堂(重文)内陣の彩色復元
この鎌倉復興期に作製された寺宝に、「金銅能作生塔(こんどう・のうさしょうとう)」と「木造黒漆塗彩絵厨子(もくぞう・くろうるしぬり・さいえのずし)」があって、前者は国宝、後者は奈良県重要文化財に指定されている。能作生塔は、それをもつと物事が意のままになるという如意宝珠を納める容器。青銅に金、銀を施して精緻な文様が刻まれていて、鎌倉期最高の金工技術でつくられている。
いっぽう、厨子のほうは内側に普賢菩薩と十羅刹女(じゅうらせつにょ)が描かれていて、元々本堂の御本尊だったのではないかといわれている。これほどの寺宝が伝えられていること自体、当時の再興ぶりがいかに豪奢であったか想像できる。ただ、両者とも、残念ながら、今はよその博物館に保管されていて寺にはない。
金色の龍が昇っていったという池
これらの寺宝ももちろん貴重なのだが、今回の目当ては何といっても国の重要文化財指定の本堂。叡尊たちが再建した姿をほぼ残したまま今に伝わるこの本堂には、平安時代から江戸時代にわたって制作された仏像が祀られているほか、内陣全面に彩色絵がほどこされている。彩色といっても、経年劣化や煤のために今はうっすらと堂内各所にその姿を確認できるだけで、最近まではその存在自体は知られていたが、実際どのような絵が描かれているのかはっきりしていなかった。
本堂の内陣(柱や壁板に彩色絵がかすかに見える)
ところが、1904(明治37)年の解体修理から1世紀以上を経て本堂全体の破損が進行していたため、2012(平成24年)から4年がかりで大規模な解体修理が行われた。その過程で、解体された建物の部材を赤外線によって判読した結果、内陣に描かれた彩色絵の全容がほぼ判明する。曼荼羅や来迎図、飛天、三千仏など多彩な仏画から構成されていることがわかったが、調査チームは、これに加えて、調査結果に基づいた彩色推定復元図を制作した。
これが現在、解体修理された本堂の元の絵とともに閲覧できるようになっている。鎌倉期からの建物なので本堂のほうはかすかに絵があるという程度の状態だが、本堂の隣の建物に飾られた絵の数々は極彩色で、建てられた当初はこのお堂がいかにきらびやかな空間だったかがよくわかる。
本堂柱に描かれた迦陵頻伽(かりょうびんが)の推定復元図
(迦陵頻伽は仏教における半人半鳥の想像上の生物)
彩色が語る極楽浄土 現世ではたせぬ憧憬の世界
御住職は宝山寺の管主を務める大矢実圓さんで、長福寺はその自坊になる。お寺の隣に御住居を構えられて奥様とともにお住まいだが、檀家もなく、かといって観光寺でもないこのお寺が少なからぬ費用のかかる解体修理を遂行するには相当の御苦労があった。以前からお世話になっている筆者は折りに触れてそのお話を伺っていただけに、落慶法要を迎えたその日には感慨もひとしおだったが、御住職はそれとは比べものにならないお気持ちを抱かれたことと推察する。
そして、お寺では、せっかくなのでそれを機に、新たに整備された境内を拝観者に観てもらえるよう受け入れを始めた。今お寺を訪ねると、奥様が寺の歴史や宝物のこと、仏像、そしてこの彩色絵のことなどを丁寧に解説してくださる。改めてその説明を伺うと、長福寺がなぜこれほど一般に知られていないか不思議になる。
それにしても、驚かされるのは、内陣にほのかに残る彩色絵と復原されたそれのコントラストだ。本堂のほうの元の絵は、幾世紀もの歳月を経て彩色と呼ぶのがはばかられるほど消えかかっているので、本堂の部材たる柱や壁面の古色に沈み込んでいる。
おかげで、歴史を重ねた古刹の多くがそうであるように、ダークブラウンを基調としたモノトーンの世界がそこを支配する。古寺巡りの醍醐味はまさにここにあって、その世界に包まれることによって、訪問者は堆積された時間の向こうにある古の時代に心を馳せることができる。いっぽう、復原図のほうは、彩色を極めるという表現がぴったりなほど明るく鮮やかで、古色蒼然とした今の様子が元々こんなにきらびやかだったとはにわかには信じられない。
内陣壁面に残る「飛天」図
だが、よくよく考えてみれば、われわれは寺院の今ある姿を起点にしてその歴史を考えるから、それをダークブラウンのフィルターを通してイメージするが、実際には、出来たてのときのその姿はもっと色鮮やかで、まさに復原図が示す世界がそのままそこにあったと考えるのが正しい。
本尊が元々何であったかは定かでないとはいえ、現在の本尊が阿弥陀如来像(江戸時代作)であることからしても、この本堂は極楽浄土を表現している。だから、そこには来迎図があり、飛天が舞い、迦陵頻伽(かりょうびんが)まで描かれるのである。古の人びとにとって、それは、極楽浄土の疑似体験を可能にする「immersive space(没入空間)」だったといっていい。
上の写真「飛天」の復元図
叡尊が長福寺を再興する鎌倉時代に先立つ平安時代末期は、浄土信仰が大流行して、この手のお堂の建設ラッシュが起こった。極楽浄土の中心には阿弥陀仏がいるとされることから、一般に阿弥陀堂と呼ばれ、よく知られているのが平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂である。前者もまた彩色絵で知られ、後者には金色の内陣に宝石や螺鈿細工が散りばめられて、いずれも当時の技術の粋を尽くして極楽浄土を再現している。
これほど浄土信仰が盛んになった背景には末法思想の影響があった。仏教の教えによれば、お釈迦様の入滅後時間がたつにつれてその教えは廃れていき、最後には救われることができなくなるという。釈迦入滅後の一定の期間は正法の時代で、釈迦の教えが正しく守られ、それを実践して悟りを得るひとがいる。その後に像法の時代がやってきて、教えや修行は正しく行われるものの、悟りは得られなくなる。
そしてその後には末法の時代が到来し、これ以降教えはあっても、修行するひとも悟りを得るひともいなくなってしまう。その末法の始まりを当時の人びとは1052(永承7)年だとして、ある種の終末論的なムーブメントが起こった。お釈迦様の教えが現世で効き目がなくなってしまうのなら、せめて来世で極楽浄土に往生したいというのが、この時代浄土信仰が盛んになった所以である。関白藤原頼道が先に挙げた平等院を建設したのがちょうど永承7年というのも、いかにも象徴的である。
ムーブメントが日本の宗教界に与えたインパクトは絶大で、この浄土信仰が起点となって、その後の法然や親鸞、一遍たちの鎌倉新仏教が生まれる。初め一部の僧侶や貴族階級のものだった浄土信仰が庶民のあいだに広がって、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで誰もが極楽往生できるという考えが急拡大した。そのとき、阿弥陀堂は、極楽を象徴するという意味で、現世とは隔絶した、それこそこの世のものとは思えないほど華美で壮麗でなければならなかった。ひとたび阿弥陀堂に踏み入ることは、生きながらにして浄土に迎えられることを意味していて、当時の人びとにとっては稀有で特別な体験だった。
柱に描かれた曼荼羅の復元図
その意味では、浄土思想が新宗教によってさらに一般化した鎌倉後期再興の長福寺にも、阿弥陀堂とはいわぬまでもそれに準ずる特殊な空間があったとしてもちっとも不思議ではない。当時の人びとはこのお堂の懐で現世ではかなうはずのない極楽浄土を希求した。そのとき、金色の仏像や極彩色の仏絵は、その信仰を成就させるためには不可欠な舞台装置だった。(その3に続く)
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