【深掘り】富雄丸山古墳 副葬品に偏り、配置も異様 被葬者像は
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未盗掘の埋葬施設の調査が進められてきた奈良市丸山1丁目の富雄丸山古墳。木棺の中から青銅鏡3枚と竪櫛9点が見つかった。ただ古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳としては副葬品が少ない。木棺の外を覆う粘土の中からは類例のない盾形銅鏡や長大な蛇行剣(だこうけん)が見つかり強烈なインパクトを残したが、棺内の遺物の内容は対照的だ。それが何を意味するのか。浮かび上がる被葬者像とは。(竹内稔人)
構造が明らかになった木棺
奈良市教育委員会が調査を実施。出土した木棺は、丸太を半分に割って内部をくり抜いた「割竹形(わりたけがた)木棺」だった。材は古墳時代の同木棺に一般的な広葉樹コウヤマキ。ひつぎは北西―南東方向を向き、長さは約5・6メートル。幅は64~70センチで北西端の方が南東端より広い。ひつぎの身も北西端の方が約20センチ高く傾斜して置かれていた。
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発掘調査の進展によって全貌が明らかになっていった木棺=左から2023年1月22日撮影、24年2月6日撮影、同3月12日撮影
2月上旬までの調査では、木棺の南東側でひつぎの端をふさぐ「小口板」や、ひつぎ内部を区切る「仕切り板」がほぼ完全な形で残っていることを確認。
その後の調査で北西側の小口板と仕切り板も、原位置を保って一部残存していることが明らかになり、ひつぎの内部を三つに区画していたことが分かった。
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ひつぎ中央の区画の主室は長さ2・4メートル。北西側と南東側の二つの副室はいずれも同1・3メートル。被葬者は頭を北西に向けて主室に埋葬されたと考えられ、頭部が想定される位置には水銀朱が集中していた。
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南東側の副室付近は特にひつぎの残りが良く、身の底内面にはちょうなで削った刃の痕跡も確認できた。割竹形木棺の底の外面は丸くU字状を呈するとみられるが、内面は平坦になるよう加工していたようだ。