歴史文化

新・大和の神々/17 粟殿坐大神神社の宮講(桜井市粟殿) - 地域安寧祈り綱掛け

関連ワード:

祭典前日にご神木に綱を掛ける東西宮講の当屋=1月13日、桜井市粟殿の粟殿坐大神神社

 奈良県桜井市粟殿の粟殿坐大神(おおどににますおおみわ)神社(前野千佳子宮司)には、特定の住民でつくる「宮講」が存在し、五穀豊穣(ほうじょう)と地域の安寧を祈る神事を続けてきた。祭典前日には「綱掛け祭り」があり、境内のご神木に真新しい綱を巻いた。(竹内稔人)

 

 粟殿坐大神神社は平安時代の「延喜式」に記載された式内社、桑内神社とみる説がある古社。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)で、「三輪さん」や「三輪明神」で知られる同市三輪の大神神社の分霊を祭る。粟殿地区の氏神だ。

 

 同地区は江戸時代、天領(幕府直轄地)や清水家領知だった粟殿坐大神神社を祭る西粟殿と、津藩領で春日神社を祭る東粟殿に分かれていた。1909(明治42)年、春日神社は粟殿神社に合祀(ごうし)された。

 

 宮講は西粟殿と東粟殿のそれぞれで組織され、神社の合祀後も東西の講が残った。祭りの責任者となる各講の当屋は1年交代で務めている。

 

 2025年1月の祭典で東宮講の当屋を務めた吉田宗央さん(73)宅には、江戸時代(1792年)の粟殿村の絵図が残されている。周囲に田が広がる中心に家が集まり、西は「清水家様」、東は「藤堂和泉守様」の記述があり、確かに東西で領地が分かれていたことが分かる史料だ。

 

 宮講の祭典は例年1月11日だったが、現在は1月第2日曜に変更。25年は1月12日に斎行した。東西宮講の各当屋宅の床の間に、粟殿坐大神神社の分霊が宿る掛け軸を掛け、講の人々が集まるなどして神事を執り行った。その後、神社で祭典があったのち、直会(なおらい)も行われた。

 

 祭典前日には、当屋が神社本殿脇にあるご神木に綱を巻く「綱掛け祭り」も行われた。ご神木はケヤキで、20~25年ほど前に朽ちて伐採され、現在は高さ5メートルほどの幹が残る。

 

 東西宮講の当屋2人が神社でおはらいを受けると、長さ8・7メートルの真新しい綱各1本を幹に巻きつけ、しでを付けた。吉田さんは「地域の方々が1年間、平穏に過ごせますようにと祈りながら綱掛けをした」とすがすがしい表情で語った。

 

 東宮講に伝わる記録によると、宮講は終戦年の1945(昭和20)年だけ中断した以外、毎年続けられてきた。1936(昭和11)年の記述では、宮講の講員は地域に住む人に限られると規定。分家も認められたものの、新しく移住した人は加入できない“掟”があったようだ。

 

 ただ36(同11)年に東西宮講とも30数軒あった講員は現在、東8軒、西13軒まで減少した。それでもそれぞれ今後について話し合った結果、今いるメンバーで宮講を守り続けることを決めたという。

 

 吉田さんは「次の世代が地区外に出てしまって後継者がおらず、引き継ぎが課題」としながら、「できる限りは続けていきたいと皆が思ってくれている」と語った。宮講に対する強い思いが存続の原動力となる。

当屋宅の床の間に掛けられる粟殿坐大神神社の分霊が宿る掛け軸=1月13日、桜井市粟殿
江戸時代(1792年)の粟殿村の地図

こちらの記事も読まれています

特集記事

人気記事

  • 奈良県の名産・特産品・ご当地グルメのお取り寄せ・通販・贈答は47CLUB
  • 出版情報 出版物のご購入はこちらから
  • 特選ホームページガイド