【ことなら’23秋】歴史巡礼~ 奈良県田原本町/田原本御坊と浄照寺 寺内町・田原本を巡る
信仰と交通の要衝で繁栄
国中(くんなか)と呼ばれた奈良盆地の中央に位置する田原本町。浄土真宗本願寺派の浄照寺を中核とする寺内町(じないちょう)として発展した。町の一角には古くからの町家が残り、往時のにぎわいを今に伝える。「御坊さん」と親しまれる浄照寺は大和五カ所御坊(今井、御所、高田、畝傍、田原本)の一つ。民衆の信仰心と交通の要衝で栄えた寺内町、田原本を訪ねる。
浄照寺のシンボルともいえる山門と二層式の太鼓楼
田原本御坊中心に寺内町
賤ケ岳の七本槍 平野長泰が統治 ~田原本御坊の始まり~
中世後半の大和では興福寺の力が衰退し、在地領主が勢力を拡大していた。豊臣秀吉に仕えて功名を挙げた平野権平長泰(1559〜1628年)が田原本の領主となり、寺内町の形成に力を入れたことが現在の田原本の基礎をつくった。
長泰は秀吉が柴田勝家を破った「賤ケ岳の戦い」で名を上げた「七本槍」の一人。田原本を治めることになったのもその功績による。その後、秀吉の勘気をこうむり3千石から千石に減封されたが、1595(文禄4)年には旧功をたたえて5千石に加増された。その内容を記した豊臣秀吉の書状2通が町文化財に指定されている。ただ、長泰の屋敷は京都の伏見にあり、誘致した教行寺(現在田原本町にある教行寺とは別)に町の形成を任せたようだ。
阿弥陀信仰寺院 平野長勝が誘致 ~田原本御坊・浄照寺~
長泰の死後、2代目の平野長勝が田原本に入り、現在の田原本町役場付近に陣屋を構えると、支配を任せていた教行寺と意見が合わなくなり、教行寺を箸尾村(現在の広陵町)に移して跡地を二分、北に平野家菩提寺(ぼだいじ)の本誓寺、南に円城寺(後の浄照寺)を誘致し、今に至るという。
厳しい修行を主とする出家宗教と異なり、日常生活の中で念仏を唱えれば救われるとする阿弥陀信仰の中心寺院として寺内町の人々に厚く信仰された。
平野家の菩提寺 2、9代目霊廟 ~本誓寺~
創建は鎌倉時代で浄土宗。当初は本覚院と称し今より北に位置したが、長泰による復興を機に本誓寺と改められ、平野家の菩提寺となった。平野家2代目と9代目の霊廟がある。他の領主は江戸の泉岳寺(曹洞宗)に眠る。平野家は禅宗だったが、徳川家に謀反心はないと、浄土宗に改宗したとされる。
領主平野家の菩提寺である本誓寺に設けられた2代目(右)と9代目の霊廟
ちょっと寄り道
田原本町は弥生時代最大級の環濠(かんごう)集落跡「唐古・鍵遺跡」でも有名。史跡公園や道の駅、唐古・鍵考古学ミュージアムがあり、弥生時代の「ムラ」を体感しながら散策が楽しめる。近鉄田原本駅近くの「観光ステーション磯城の里」で観光マップを入手し、レンタサイクルで散策はいかが。
浄照寺見どころ
華麗な金箔装飾、伏見城門を移築
金箔押しの装飾が見事な浄照寺本堂
浄照寺本堂は県有形文化財(建造物)に指定されており、奈良県下の大規模な真宗寺院の本堂の典型とされる。内外陣を区切る柱や欄間などに金箔(きんぱく)押しの華麗な装飾が施され、見応えがある。
山門は伏見城の城門を移したと伝わる。山門の鬼瓦は泥棒除けとされる鍵のデザインで、浄土真宗では使うことがないため、移築された山門と推定されている。
鍵形の意匠が施された山門の鬼瓦=浄照寺
二層の太鼓楼は寺のフォトスポット。元は各層が別棟だったが、明治に長屋門の上に太鼓楼が移された。法事などの2時間前に太鼓が、1時間前に鐘が打ち鳴らされたという。
御殿は江戸後期の建築で、明治天皇の行在所。1877(明治10)年2月に明治天皇が休憩され、同年4月には昭憲皇太后が宿泊された。
明治天皇が休息された御殿。奥の壁には大和三山=浄照寺
寺では毎月第3水曜の午後1時半に古文書講座、毎年8月には寄席を開催。ヨガや歌などのサークル団体も利用するなど、サロン的な役割も担っている。
本堂(外陣)や境内は拝観自由で午前9時〜午後5時。御殿などは予約が必要。
問い合わせは同寺、電話:0744(32)2477。