【ことなら'24春】藤原氏のルーツを探る 権勢誇る氏寺・興福寺 - 源氏物語を巡る旅
大和国支配の大伽藍
藤原鎌足の病気平癒祈願で創建
興福寺は法相宗の大本山で「古都奈良の文化財」の8資産の一つとして世界遺産に登録されている。創建は669(天智8)年。藤原鎌足が重い病気を患った際、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して建立した「山階(やましな)寺」が始まりとされる。
「壬申の乱」(672年)後、飛鳥の都に移され地名から「厩坂寺(うまやさかでら)」と呼ばれた。710(和銅3)年、都が平城京に移ると藤原不比等(ふひと)によって現在地に移され、「興福寺」となった。その後も藤原氏の氏寺として発展していく。
藤原不比等が創建し、2018年に再建された中金堂
伽藍(がらん)は中金堂や五重塔など主要な建物が次々と完成、寺の勢力も大きくなっていった。平安時代には多くの僧兵を抱え、大和国を支配するほどの権勢を誇った。
1180(治承4)年、平重衡(しげひら)の南都焼き討ちにより伽藍は全焼。のちに再建され、藤原氏が造立してきた伽藍の景観を今に伝えている。
「古都のランドマーク」として親しまれている五重塔は約120年ぶりとなる大規模修理中。工事用の覆屋を設けるため、隣接の東金堂も閉められている。
国宝館には阿修羅像をはじめとした国宝の仏像が多数安置されており、間近で拝観できる。
藤原氏が厚く信仰したという南円堂
藤原不比等の霊を慰めるために建てられた北円堂
興福寺のみどころ
■中金堂(ちゅうこんどう)
興福寺伽藍の中心になる最も重要な建物。寺伝では創建者は藤原不比等としている。
中金堂は兵火などにより焼失と再建を繰り返してきたが、江戸時代に起きた7度目の火災後は、仮堂が建てられたものの本格的な再建に至らなかった。再建は長年の悲願だったが、地道な勧進が実り、創建1300年の2010年に中金堂の立柱式が営まれた。落慶は2018年。古文書の記録や発掘調査の成果を基に、天平の創建時と同じ規模、様式で復元された。
本尊は木造釈迦如来坐像。江戸時代に制作された5代目で、中金堂再建落慶に合わせて修復された。黄金に輝く美しい仏像。
120年ぶりに大規模修理中の五重塔と閉堂中の東金堂
■南円堂(なんえんどう)
重文・江戸時代
813(弘仁4)年、藤原氏の中でも摂関家となる北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)の冥福を願って建立した。4度目の焼失後、1789(寛政元)年に再建されたのが現在のお堂。「西国三十三所」の第九番札所として多くの参拝者が訪れる。
本尊の不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)は鹿皮(ろくひ)を身にまとっている。神鹿、春日社との関係から藤原氏が厚く信仰したといわれる。お堂の正面扉の上にしめ縄が飾られ、神仏習合を表す。
■北円堂(ほくえんどう)
国宝・鎌倉時代
藤原不比等の1周忌に当たる721(養老5)年、元明・元正天皇が、長屋王に命じて建立。不比等の霊を慰めるため、平城京を一望できる境内最良の場所に建てられた。本尊の弥勒如来(みろくにょらい)坐像を中心に、木心乾漆四天王立像などが安置されている。
■三重塔
国宝・鎌倉時代
1143(康治2)年に崇徳(すとく)天皇の中宮、皇嘉門院(こうかもんいん)藤原聖子の発願によって創建された。1180年の兵火で他の諸堂と共に焼失、鎌倉時代に再建された。繊細優美な平安時代後期の建築様式を引き継ぐ。年に1度、7月7日の弁才天供で特別開扉が行われる。
皇嘉門院藤原聖子の発願によって創建、鎌倉時代に再建された三重塔
【メモ】興福寺
奈良市登大路町48
中金堂、国宝館の拝観は午前9時~午後5時
拝観料は中金堂が大人500円
国宝館は大人700円