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大和美酒之記2/渡来技術で酒造り普及 - 三輪山祭祀でも重視 神聖性から信仰に

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橿原市の新沢一遺跡で出土した弥生時代中期の台付水差形土器(国重要文化財)=橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館

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 日本に稲作文化が伝わり普及した弥生時代。奈良県立橿原考古学研究所の広岡孝信主任研究員は「考古学的には未確認だが、コメを原料とする日本酒が最もさかのぼって存在した可能性がある時代。それは文献史料からも類推できる」と語る。

 

 中国の歴史書「魏志倭人伝」は日本人を「人性酒を嗜(たしな)む」とし、喪に際しては「歌舞飲食」する風習があったと記す。

 

 この時代に出土する取っ手の付いた「水差形(みずさしがた)土器」や鉢といった液体専用の容器も、「丁寧な造りと希少性などから特殊な水の器だったことが想像できる」と広岡さんは語る。

 

 古墳時代中期(5世紀)には朝鮮半島の最新技術が渡来人により伝わった。透水性の低い硬質の須恵器、蒸し器の甑(こしき)、住居内に設置するかまど。現在に通じる酒造りに必要な道具が一気に普及した。

 

 国内最大の前方後円墳、堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)では大型の須恵器の甕(かめ)が出土。一方、小型古墳でも大甕が見つかることがある。のちの古代に醸造容器として用いられた大甕の存在は、古墳祭祀(さいし)に酒が伴ったことを想定させる。

 

 広岡さんは「ヤマト王権による前方後円墳を中心とした統一的な古墳祭祀(さいし)と各地の食生活や文化の方向性が一致し、酒造りが急速に広まった」とみる。

 

 ヤマト王権の本拠地、三輪山山麓には「酒の神様」、桜井市の大神神社が鎮座する。ご神体とする同山の山腹、山ノ神遺跡では5世紀の土製品が出土。臼や杵(きね)、匏(ひさご=ヒョウタン)、杓(しゃく)、案(机)、箕(み)を模したセットは、平安時代の「延喜式」が記す酒造道具に共通し、古墳時代中期の三輪山祭祀が酒や酒造りを重視したことが分かる。

 

 「人間の力の及ばないものが作用して酒ができる。そうした神聖性が大神神社の信仰に結び付いた。酒造りとマッチした政治や食生活、文化のターニングポイントの中核を担ったのが同神社だった」

 

 奈良時代、奈良市の平城宮(8世紀)に酒造りの役所「造酒司(みきのつかさ)」が置かれた。ただそれ以前の橿原市の藤原宮跡(7~8世紀)で「造酒司」、さらに前の明日香村の飛鳥宮跡(7世紀)で「須弥酒」と書かれた木簡がそれぞれ見つかっている。

 

 「飛鳥時代から酒造りの役所機関があったのではないか。政治と酒は切っても切れない関係だった」と広岡さん。酒は宮中での祭事の供物のほか薬や宴、嗜好(しこう)で用いられ、「酒の歴史を見ると、酒にいろいろな側面があったことが分かる」

南郷遺跡群から出土した甑(左二つ)と土師器の甕を転用した甑(右端)=橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館
宇陀市の小型古墳、澤ノ坊2号墳から出土した大甕=同
山ノ神遺跡から出土した酒造道具を模造した土製品=桜井市三輪の大神神社

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