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西から登るか、東から登るか? - 信貴山朝護孫子寺 大和参道紀行〈1〉

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奈良側と大阪側でケーブルが開業し、それぞれ雰囲気の異なる参道が開かれた信貴山朝護孫子寺

 奈良県内には多くの神社仏閣が存在する。境内の仏堂や社殿はガイドブックに取り上げられるが、そこに行くまでの参道は見落とされがちだ。

 

 しかし、寺社は「まわり」こそおもしろい。参道沿いの商店街、お寺へのびる参詣鉄道、なぜか神社から離れた場所にある鳥居などなど…。

 

 この連載では、奈良県の寺社を「参道」という切り口で紹介する。第1回となる今回は、「寅(とら)の寺」として知られる朝護孫子寺(平群町)を訪れてみよう。

 

 

ケーブルの開業で変遷

 一般的には、朝護孫子寺という寺号よりは、信貴山という山号のほうがよく知られているだろう。その名の通り、生駒山系の山「信貴山」の中腹にあるお寺である。

 

 信貴山への参拝路は二通りある。一つは奈良側からのルートで、近鉄信貴山下駅からバスで寺まで向かう。もう一つは大阪側からのルートで、近鉄信貴山口駅から西信貴鋼索線(西信貴ケーブル)に乗り、高安山駅でバスに乗り換えて寺へ向かう。

 

 現在は大阪側にしかケーブルはないが、かつては奈良側にもケーブルが存在した。地図で見ると、信貴山下駅から現在の奈良交通「信貴山」バス停へ向かう直線の道が見えるが、これが「東信貴鋼索線」の廃線跡である。

 

 

 この二つのケーブルの開通が、奈良側と大阪側にそれぞれ雰囲気の違う門前町を生むことになった。その対比が、信貴山の参道のおもしろいところである。

 

 先に開通したのは、奈良側のケーブルである。1922(大正11)年、信貴生駒電気鉄道が、現近鉄生駒線に相当する路線と合わせて東信貴鋼索線を開通させた。これにより、東信貴鋼索線の駅から寺へ至る参道(東参道)が開かれた。

 

 江戸時代まで、奈良側には現近鉄勢野北口駅あたりから寺までのびる参道(旧東参道)が存在したが、ケーブルの開通により衰退した。

 

 現在、東参道には「柿本家」や「みよし」といった旅館が並んでいるが、これらはケーブル開通後に旧東参道から新しい東参道に移転したものである。

 

 大阪からのケーブルが開通したのは、奈良側から8年ほど遅れた1930(昭和5)年のこと。こちらは近鉄の前身である大阪電気軌道の子会社である信貴山電鉄(のち信貴山急行電鉄と改称)によって開かれた。

 

 信貴山急行電鉄はケーブルだけでなく、「山上鉄道線」と呼ばれる路線も運営していた。これはケーブルの高安山駅から寺まで向かう路線で、山の上を走る山上鉄道としては日本唯一の存在だった。

 

 大阪側からのケーブルと山上鉄道の開通により、信貴山には新たに西参道が開かれることとなった。

 

 西参道の一部は、江戸時代から存在する古い道である。かつて、大阪側から信貴山へ参拝する人びとは、現信貴山観光ホテルの西にある細い道を通って寺へと向かっていた。しかし、この旧西参道は高低差が激しく、歩くには苦労する道だった。

 

 そこで造られたのが、「開運橋」という長さ106メートルの橋である。開運橋は大門池という池をまたぐように架けられ、これにより坂を上り下りせずに寺へ向かうことが可能となった。開運橋は「上路カンチレバー橋」という構造の橋としては現存最古のものであり、国の登録有形文化財にも指定されている。

 

西参道の整備に合わせて架けられた開運橋

 

 このように、近代の信貴山では、奈良側においても大阪側においても、ケーブルの開業と新参道の開通という参道の変遷がみられた。

 

 時代が下り戦時中になると、西信貴鋼索線と山上鉄道線は廃止となった。ケーブルは戦後に復活したが、山上鉄道線は復活することはなく、また東信貴鋼索線は1983(昭和58)年に廃止されてしまった。信貴山を訪れる際は、ぜひこうした交通の変遷にも想いをはせてみてほしい。

 

◆執筆者

 重永瞬(しげなが・しゅん) 1996年生まれ。京都市出身。京都大学で地理学を学ぶ大学院生(博士課程)。「社寺の境内空間はいかに使われるか?」に関心を持ち、縁日露店の歴史について調べている。ツアー団体「まいまい京都」にて、京都府や奈良県内の寺社の参道を歩くまち歩きツアーを行う。著作に『統計から読み解く色分け日本地図』(彩図社、2022年)。

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