【インタビュー】明日香村教委文化財課の西光慎治さん - 牽牛子塚古墳 復元整備にかけた思い
奈良県明日香村越で史跡牽牛子塚(けんごしづか)古墳で復元整備が終了し、3月から一般公開されている。飛鳥時代の女帝、斉明天皇(594~661年)の墓と確実視されている古墳が、発築造当初の姿によみがえった。発掘調査から担当した村教育委員会文化財課の西光慎治課長補佐に、復元整備にかけた思いを聞いた。
―牽牛子塚古墳とは
牽牛子塚古墳は7世紀後半に造営された終末期古墳です。2009~10年に明日香村教育委員会が範囲確認調査を実施し、飛鳥時代の大王墓に採用される八角墳であることが判明しました。
日本書紀の天智天皇6年条には、斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を小市岡上陵(おちのおかのうえみささぎ)に合葬したとの記述があります。
牽牛子塚古墳は古代の「越智岡(おちのおか)」に位置します。石槨(せっかく)は巨石をくりぬいた2室構造で、斉明天皇と間人皇女の墓説がありましたが、八角墳と確認されてほぼ確実視できるようになりました。
さらに10年には古墳南東の隣接した場所で、くりぬき式の横口式石槨(せっかく)が見つかりました。新たに発見した古墳で、大字「越」と小字「塚御門」から「越塚御門古墳」と命名しました。
日本書紀は、斉明の孫・大田皇女(おおたのひめみこ)を小市岡上陵の前に葬ったと記します。牽牛子塚古墳と越塚御門古墳はこれら記述との蓋然性が高く、注目を集めました。
―なぜ復元整備をしたのか
遺跡や古墳の復元整備といってもさまざまな形があります。お城のようにシンボリックで地域の誇りとして整備するものもあります。
牽牛子塚古墳は2009年から行った調査で、考古学的な貴重な成果が得られましたが、古墳が抱えている課題も浮かび上がりました。墳丘は雨が降ると崩落するような、ぜい弱な状況に陥っていたことが分かったのです。
「調査前の姿が良かった」という意見も聞かれます。ただ当時の写真をよく見ると、墳丘の土砂が崩落した痕跡が見られます。外見的には良くても、古墳の内側は危機に瀕していました。何らかの処置をしないと100年後、1000年後に残らない。その処置として整備の必要がありました。
今残されている状態を後世に伝えるためにはどうしたら良いのか。検討していく中で、墳丘裾だけ八角形に復元する案や、上部に覆い屋をかける案など、さまざまな案が出ました。しかし、築造当時の姿に復元することがベストだという結論に至りました。そういった議論のプロセスが大事で、八角墳の復元はあくまで結果になります。
―整備のポイントは
外見は想定される築造当時の姿に復元していますが、あくまで墳丘や石槨を雨風から保護するためのシェルターとして整備しています。
石槨の上には少しだけ盛り土が残っていましたが、土はぜい弱で、後世にどう残せるかが課題でした。劣化した墳丘と石槨を補強盛り土で覆い、さらに墳丘の荷重を減らすために軽量盛り土(EPSブロック=発砲スチロール)で全体を覆いました。
外観は発掘調査の成果をもとに、同じ明日香村にある八角墳の野口大墓古墳(天武・持統天皇陵)の調査データを参考にしました。
外観全体の装飾に使用した凝灰岩切り石の石材は、長辺60㌢、短辺45㌢、厚さ3㌢、重さ約5㌔。2500枚を使用して対辺長約22㍍、高さ約5㍍の三段築成の八角墳として復元しました。大王墓クラスの大型八角墳を復元した例としては全国初になります。
牽牛子塚古墳の石材は本来、二上山(奈良県葛城市、大阪府太子町)周辺で産出される凝灰岩ですが、二上山は金剛生駒紀泉国定公園内にあるため、石を切り出すことができません。そこでよく似た石材の、石川県小松市の滝ケ原石の切り石を使用しています。
滝ケ原石は緑色凝灰岩でやや緑かかっているのに対し、二上山産の凝灰岩は真っ白です。飛鳥時代の当時、牽牛子塚古墳は復元した姿よりもっと白かったと想像できます。大王家の象徴的な墓の形として八角墳を採用し、真っ白な石材を使用することで、新しい時代の幕開けを印象付けたかったのでしょう。
―越塚御門古墳の復元は
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