没後1300年の太安万侶 抜きん出た才能 - 下命からわずか1カ月で仕上げた古事記
現存する日本最古の歴史書「古事記」を編さんしたことで知られる太安万侶(おおのやすまろ、?〜723年)。今年は没後1300年に当たる。奈良にゆかりの深い太安万侶とはどんな人物だったのか。史料の記録やこれまでの調査・研究から分かってきた人物像をみていこう。
古事記を編さん
太安万侶は古代の有力氏族、多氏の出身。多氏が拠点にしたとされる奈良県田原本町多には、多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社(多神社)が鎮座。神社の南にある小杜(こもり)神社は安万侶を祭神として祭る。
711(和銅4)年9月、安万侶は元明天皇に古事記編さんを命じられる。古くから宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」を稗田阿礼(ひえだのあれ)が読み習い、その内容を安万侶が筆録。翌12(同5)年1月に天皇へ献上したという。わずか約4カ月で古事記を仕上げており、ずば抜けた能力の持ち主だったようだ。
1979(昭和54)年1月、奈良市此瀬町で1基の墓が見つかった。墓誌も出土して安万侶の墓と判明。墓誌に記された位階勲等や卒年月日が、古事記序文や続日本紀の内容と一致した。
従来、古事記は後世の人が記したという偽書説もあったが、太安万侶が実在した人物だったことを裏付ける大発見となった。
平城京内に本籍地
墓誌には次のように記されていた。
「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
墓誌や続日本紀によると、太安万侶は「従四位下」まで昇進し、諸国の財政や租税を管理する長官、民部卿(みんぶきょう)に就任。723(養老7)年7月6日に亡くなった。
墓誌の記述から、安万侶は平城京の左京四条四坊が本籍地だったことも明らかになった。同地は現在のJR奈良駅(奈良市)の西方に位置。これまでのところ安万侶の宅地を示す資料はないものの、ヒツジの形をした硯(すずり)や金銀で飾られたベルトなど、高位の人物が所持していたとみられる遺物が出土している。安万侶がこの地に居住したことを推測させる品々だ。
奈良時代の葬地
太安万侶の墓は茶畑の整備中に偶然発見された。丘陵の南側斜面に穴を掘り、その中に木炭を敷き詰め、火葬骨を納めた木櫃を安置。墓誌は木櫃の底面の下に置かれていた。
平城京で暮らしていた安万侶だが、死後は火葬されて京から離れた東方、「東山中」(大和高原)の田原地域に葬られたようだ。
同地域には光仁天皇田原東陵や春日宮天皇田原西陵があり、安万侶墓の発掘調査を契機に周辺では多くの火葬墓の痕跡も確認された。
調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短期大学特任教授は「太安万侶の出身地と住居地と埋葬地は全く関係のない場所。安万侶墓の調査以降、奈良時代の皇族や貴族、官僚らは、平城京から離れた東と西の一帯に葬地が設定されていたと考えられるようになった」と語る。
子孫たちが改葬か
太安万侶墓や墓誌については最新の研究で新たなことも分かってきている。
奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)付属博物館が10月30日に開いた研究講座では、墓に使われた木炭を「ウィグルマッチング法」で年代測定したところ、746〜766年の結果が出たことが公表された。木炭の伐採年代が正しければ、墓は安万侶の没後20〜30年後に造られていたことになる。
発表者の重見泰・橿考研指導研究員は「死後どこかで埋葬されたのち、新たな墓に改葬された可能性がある」と話す。古事記編さんという偉大な功績を残した安万侶。子孫たちは改めて厚く弔ったのだろうか。(竹内稔人)
◇メモ
奈良県橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館で、太安万侶没後1300年を記念した秋季特別展「古事記編纂(さん)者 太安萬侶」を開催中。11月26日まで。