大和美酒之記4/“神人共飲”で一体感 - 日本文化に欠かせない酒
古事記や日本書紀には吉野の国栖(くず)の人々が酒を造り、応神天皇に献上した際に歌った歌がある。
「橿(かし)の生(ふ)に横臼(よこす)を造り、横臼に醸(か)める、大神酒うまらに、聞こしもち食(お)せ、まろがち」(橿の林で横臼をつくり、その横臼に醸=かも=した大神酒を、おいしく召し上がれ、我が父よ)
吉野町南国栖の浄見原(きよみはら)神社で毎年旧暦正月14日に営まれる祭礼「国栖奏」では、舞とともにこの歌が奏上される。はるか遠いいにしえから、人々と酒がつながってきたことを想像させる。
記紀に登場する、有名なスサノオノミコトが大蛇のヤマタノオロチを退治した伝説によく似た伝承が、橿原市上品寺町の「シャカシャカ祭り」にある。村にすみ着いた大蛇を酒で眠らせて退治し、その霊を供養したのが祭りの始まり―。
同祭りは奈良盆地に残る稲作農耕の守護神・野神を祭り、子どもの健やかな成長と豊作を願う「野神行事」の一つ。奈良民俗文化研究所の鹿谷勲代表は「野神神事は子どもを主体とした行事だがそこに酒が関連してきた」と語る。
わらでつくった蛇(じゃ)を担いで練り歩く行事の頭(かしら)となるのは15歳前後の少年。かつては大人とみられた年頃で、蛇を担ぐ前に酒を飲んだり、樹木の葉を盃にして神酒を注いで飲む格好をしたりしたという。「少年から青年に入る儀礼として野神行事が設定された。そこに酒が登場した」と解説する。
そもそも酒はまず神に供えられるもので、祭りが終わるとお下がりを頂戴した。鹿谷さんは「神と人が同じものを飲む神人共飲で、神と人との一体感がつくり出された」と語る。
柳田国男は酒を神々にささげて一同でそれを飲んだのは、「陶然(酔ってうっとりした気分)たる心境を共同にしたい望みからであった」と指摘する(「酒の飲みようの変遷」)。酒は祭事だけでなく婚礼や供宴の場で、皆で集まって飲む不可欠なものだった。
鹿谷さんによると、奈良の東部山間地域では祝宴などで盃(さかずき)を回し、伊勢音頭や謡を歌って盃に注がれた酒を飲み干したといい、「伊勢音頭や謡をさかなに酒を飲む風習が残っていた」と語る。祭りの準備前に酒を飲む「霜消し」という風習もあるという。
鹿谷さんは「酒との関わりの中で日本人がどう酒を取り入れてきたかを民俗的に見ていくと面白い」とする一方、「人口が減り、祭りも減少する中、今後の酒文化がどうなっていくかが気に掛かる」と話す。