古墳祭祀と関連か 前方後円墳に鎮座する古社 - 櫛玉比女命神社・大和古社寺巡礼021

櫛玉比女命神社(櫛玉比女命神社)
※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。
前方後円墳の墳丘上に本殿や拝殿が位置することから古墳祭祀(さいし)との関りが考えられる古社で、鎌倉時代には天河弁財天を勧請し「箸尾の弁天さん」として親しまれてきた神社。

エリア/北葛城郡
主祭神/櫛玉比女命(御炊屋媛)
ご神徳/五穀豊穣・子孫繁栄(安産)・身体強健
ご由緒
『延喜式』神名帳記載の廣瀬郡五座の1社で、約30メートルの前方後円墳の墳丘上に本殿を祀(まつ)ることから、古墳の祭祀と神社の創祀に何らかの関係があったのではないかと考えられています。
櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)神社のご祭神は、神名帳記載の社名から櫛玉比女命と考えられ、水戸藩が編さんした史書『大日本史』などは櫛玉比女命を御炊屋媛(みかしきやひめ)としています。御炊屋媛は『日本書紀』の神武天皇即位前紀にも登場する大和の豪族・長髄彦(ながすねひこ)の妹で、物部氏の遠祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)の妃神です。
鎌倉時代後期の弘安7(1284)年には天河弁財天を勧請して祀ったとされ、やがて弁財天への信仰が盛んとなり、「箸尾の弁天さん」として親しまれるようになりました。現在も境内に、弁財天社(厳島神社)が摂社として祀られています。神社には弁財天の版木が所蔵され、また境内には「天正十(1582)年壬午十二月吉日/奉寄進弁財天御宝前二世悉地祈処…」と記された石灯籠があります(皇学館大学『式内社調査報告』第2巻)。
現在も盛大に斎行されている例祭は戸閉(とたて)祭として知られ、勇壮な地車の宮入りでは紋付き袴(はかま)に正装した氏子による奉幣行事が行われます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
平安時代初期の史書『先代旧事本紀』の巻第三「天神本紀」には、物部氏の遠祖・饒速日尊が天つ御祖の神のご命令で、あまたの伴と共に天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国に天降り、長髓彦の妹である御炊屋姫を妃としたことが記されています。
主祭神
櫛玉比女命(御炊屋媛)(くしたまひめのみこと・みかしきやひめ)
もともと大和の地を治めていた豪族・長髄彦の妹で、物部氏の遠祖・饒速日命の妃神。
境内参拝・気が付かなければ…
※📸は撮影ポイント
※スマホを見ながら散策できるように、モデル順路
葛城川の土手に立つ鳥居 📸
神社境内の東、約200メートルの葛城川の土手に朱色の両部鳥居が立っています。神社から見て鳥居の先に集落がなく河川であるという配置は珍しく、当社のご祭神・櫛玉比女命が夫神とも考えられる大神神社のご祭神と正対されているのではないか等、さまざまな説があるようです。

入り口の社号標
境内への入り口右手には社名を刻んだ社号標があります。廣瀬神社のかつての宮司の揮毫(きごう)ではないかと考えられています。

境内への結界
境内入り口には鳥居はなく、代わりに紙垂(しで)の付けられた注連(しめ)縄が張られています。これは、これより神域であることを示しています。

結界の注連縄
手水舎 📸
境内に入ると左手に手水舎があります。多くの神社では龍頭から水が注がれますが、当社は龍ではなく蛙から浄水が注がれています。これは「無事かえる」「子孫繁栄」(蛙は一度に多くの卵を産む)を意味しています。
作法に則って手水をとり、心身を清めてお参りしましょう。

鏡池
手水舎の南には鏡池があり、周りを石の瑞垣で囲んでいます。
この鏡池は水が湧き出て枯れることがありません。龍神がすむといわれ、雨乞いの池という伝えもあります。

百度石
拝殿に向かって左手に百度石があります。江戸時代の天保11(1841)年に建てられたもので、かつては拝殿と百度石の間を、祈願を立ててお参りされる方の姿も多かったようです。

人々の願いを知る百度石
拝殿前の狛犬
拝殿の前の狛(こま)犬は江戸時代の天保6(1836)年に奉納されたものです。目鼻に力のみなぎった姿に元気を頂けます。

力強い姿の狛犬
拝殿 📸
千鳥破風の付いた拝殿は江戸時代(天保期)に修復された建築物です。
例祭の際には、拝殿にぶつからんばかりに地車が迫り、紋付き袴の氏子によって独特の奉幣が行われます。
拝殿の前で 二礼二拍手一礼のお作法で参拝。

古墳の上に建つ拝殿
ご本殿
櫛玉比女命をお祀りするご本殿は、前方後円墳の後円部に鎮座しており、禁足地となっています。

不思議な灯籠
奉納という文字の上に、それぞれ描かれた鹿と鳥のような絵。古墳の近くにあって、一見、神代の文字かとも思われますが、実は昭和39(1964)年に奉納されて弁財天社の近くに置かれてあった灯籠を、現位置に移したものです。

太古に誘う灯籠
境内末社
ご本殿の右手には境内末社が祀られています。向かって左から「八幡神社・春日神社」(ご祭神:品陀和気大神・天津児屋根大神)、「皇太宮」(ご祭神:天照皇大神)、「稲荷神社」(ご祭神:豊宇気大神)、「熊野神社・白山神社」(ご祭神:熊野大権現・白山比咩命)。
これらの神社の詳細は不明ですが、江戸時代には八幡社と春日社の2社でしたが、明治になって皇太宮が祀られ3社に。明治10年には八幡社・春日社が合祀され、新たに稲荷社が祀られ3社に。昭和になり白山社・熊野社の合祀1社が祀られて4社となって現在に至っています。





摂社・弁財天社
「箸尾の弁天さん」として地域の人々から親しまれてきた弁財天社です。櫛玉比女命神社のご本殿に相殿神としてお祀りされていましたが、明治14(1881)年に現在地に遷座されました。弁財天と十五童子像が祀られています。
『式内社調査報告』第2巻(皇学館大学)では、神職宅の邸内社として鎮座し本社とは別個であるとしています。
弁財天社境内には土でつくられた可愛い狛犬がいます。

小さいながらも拝殿を持つ弁財天社

ご神木
樹齢は推定200年の楠の木です。地域の人々の暮らしを見つめ続けてきたことでしょう。かつてはこの木の傍らに、手水鉢があったそうです。

人々の暮らしを見続けたご神木
大正の御大典記念の玉垣
境内の拝殿向かって左側には、かつては大正天皇御大典記念の鉄製の馬の像があったそうですが戦時中に徴収され、現在はその玉垣の内に榊(さかき)が植えられています。

また境外には紀元二千六百年記念の国旗掲揚台があります。

歴史のなかの櫛玉比女命神社
史料にみるご祭神
櫛玉比女命神社のご祭神・櫛玉比女命は御炊屋媛とされています。
『日本書紀』神武天皇即位前紀には、神武天皇がまだ日向国におられた時に「『東に美き地有り。青山四周れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り』といひき……けだし六合(くに)の中心か。その飛び降るといふ者は、これ饒速日といふか…」と、神武天皇東征の前から大和を治めていた物部氏の遠祖・饒速日命について記されています。
この饒速日命の妃神が御炊屋媛で、もともと大和の地を治めていた豪族・長髄彦(ながすねひこ)の妹でした。饒速日命と妃神の間には可美真手命(うましまでのみこと)がいます。
御炊屋媛は、『古事記』では登美夜毘売(とみやひめ)、『日本書紀』では三炊屋媛、長髄媛、鳥見屋媛、『先代旧事本紀』では御炊屋姫などとされています。
櫛玉姫神社古墳
神社の鎮座する櫛玉姫神社古墳は前方後円墳で、周濠(ごう)も確認されています。墳丘主軸が東西方向で後円部が東、前方部が西です。発掘調査は行われていませんが埴輪(はにわ)などが出土しています。

古墳の墳丘に鎮座するご本殿
人物埴輪
現宮司がご本殿の建つ禁足地(後円部)の倒木などの整備をした際に、いくつかの埴輪片を発見しました。
奈良県立橿原考古学研究所彙報『青陵』(165号)によると、円筒埴輪、動物埴輪、人物埴輪などが出土し、人物埴輪は2個体が確認され一つは頭部がほぼ完形で残存していました。「当古墳から出土した埴輪は、円筒埴輪がV期のものであることと、形象埴輪の特徴から、古墳時代後期前半に位置付けられる」ようです。

古墳と神社
古墳に神社が鎮座する例は、全国にもあります。
重松明久『古代思想からみた古墳の形-古墳と古代宗教』(学生社)では、「わが国の場合は、島根県加茂町神原古墳の場合のように、由緒古い神社が、墳丘上に建てられていることも多い」とし、「墳丘上に、最初から祭祀用建物を設けたかどうかは、一律にはいえないのではなかろうか」とします。古墳と神社の関係には、まだまだ謎が秘められています。
愛媛の櫛玉比売命神社
愛媛県にも同名の神社、櫛玉比売命神社(松山市高田甲)が存在します。主祭神は天道日女命(あめのみちひめのみこと)と御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)で、奈良県の櫛玉比女命神社と同様に古墳に鎮座し、拝殿前は前方後円墳の一部です(ただ当神社はかつて別の鎮座地から現在地に遷されたともされています)。
愛媛県神社庁の神社検索によれば「応神天皇の御代に勅令を奉じ物部阿佐理命が風早の国造となり、天道姫命及び御炊屋姫命を奉斎せられ…御炊屋姫命(登美夜毘売とも称す)は大和国鳥見の豪族長髄彦(登美毘古)の妹君で、宇摩志麻治命の母君にあらせられます」として、物部氏との関係を記しています。
櫛玉日比女命神社と弁財天社
櫛玉日比女命神社は「弁天さん」として親しまれていた時期も長いようで、櫛玉日比女命神社と境内社の弁財天社の関係も詳らかではありません。
「箸尾満嶋弁財天瑞夢記付記」の「縁起現記」(応長2〈1312〉年・文安元年写/大福寺〈広陵町的場〉蔵)には、氏子などが天河弁財天(奈良県吉野郡天川村)を勧請し小高い丘の上(古墳の墳丘か)に祀ったことが記されています。
『式内社調査報告』第2巻(皇学館大学/昭和57年)では「『弁財天』にあたる『厳島神社』は、現在、社務所兼神職宅の邸内社として鎮座し、本社とは別個である」としています。
また『式内社の研究』第2巻(志賀剛/雄山閣/昭和52年)では「本社の北の一郭に俗信の広い赤い建物の弁財天がある。これはここから東北二丁〈二〇〇メートル〉程の所にあった〈かつて新制中学があった所〉」と記し、弁財天社は他から遷(うつ)されたとします。
ここだけの…はなし
三輪山に面して…
櫛玉比女命神社の鳥居は神社の東方、葛城川の土手の上にあり、この右手前方には三輪山が望めます。
大神神社のご祭神は、実は「倭大物主櫛玉甕玉命」(櫛玉饒速日命)であるという説もあり、櫛玉饒速日命であれば、櫛玉比女命神社のご祭神・御炊屋媛は夫神と向き合う形で祭祀されていることになります。

鳥居付近から三輪山を望む
櫛玉姫と櫛玉命
神名から櫛玉姫と対をなすと思われる櫛玉を冠する神を祀る奈良県の神社がいくつかあります。その一つ北葛城郡川合町の廣瀬神社本殿の相殿神である櫛玉命は、物部氏の遠祖である饒速日命です。また大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社のご祭神・久志玉比古(櫛玉彦)も、櫛玉饒速日命だとされています。
一方、高市郡明日香村の櫛玉命神社のご祭神・櫛玉命は玉祖連の祖・荒木命の祖神などと考えられています。
戸閉(戸立)祭
例祭は戸閉(戸立)祭と称されますが、戸を立てるとは、戸を閉めることで、家の戸を閉めて祭に奉仕したことによるそうです。
宵宮には4台の地車が並び、それぞれ一気に拝殿を目指して突き進み拝殿前でピタリと止まりますが、かつては止まれずに狛犬を壊したこともあったようです。拝殿前で地車が止まると紋付き袴に正装した氏子が御幣を持って拝殿に上がり奉幣を行います。その独自な奉幣行事は勇壮です。
主要な祭礼の内容と日時
櫛玉比女命神社では年間を通して数多くの祭祀が斎行されていますが、そのなかから主な祭典・神事を紹介します。
※日程は通例の日時です。ご参拝の節は神社社務所にご確認下さい
毎月
1日・15日/月次祭
午前8時より斎行。(1月は15日のみ)
1月
1日/初詣(午前0時~)
午前0時より、参拝者に巫女(みこ)から御神酒を授与
2日/元旦祭(午前11時~)
2月
3日/節分祭(午後6時~)
節分祭斎行の後、午後6時30分より拝殿前の舞台から、総代や福娘などによる豆まきが行われる。
6月
第1日曜日/弁財天社夏祭り(午前10時30分~)
第4日曜日/早苗饗祭(午前10時30分~)
ご神前に玉苗を供える。
30日/夏越大祓式(午前9時~)
11月
1日/例祭(戸閉祭〈とだてまつり〉)御幣授与祭(午前9時~)
地車に飾り神社に奉納する御幣(長さ90cm、紅白の紙垂)を授与する。
2日/例祭(戸閉祭)宵宮(午後5時~)
午後5時より一般参拝者の御神楽奉奏、午後7時より地車4台が参道に整列。同30分より順次宮入して御幣を奉納。宮入終了後の午後9時より宵宮祭斎行。
各大字の青年団員数名はこの日、地車で寝泊まりする。
3日/例祭(戸閉祭)本宮祭(午前10時~)
本宮祭終了後、弁財天社秋祭りを斎行。
午後1時より地車宮出が行われる。
12月
1日/新嘗祭(午前10時30分~)
月の祈年祭と対をなす祭祀で、初穂を供え収穫を感謝する。
31日/大祓式(午後11時30分~)
大祓式の後、午後11時50分に「とんど」に点火。
櫛玉比女命神社の基本データ
参拝の時間 境内の散策、摂社・末社の参拝は自由。拝殿正面での参拝は、およそ午前5時30分から午後5時30分まで。
御祈祷や御朱印 拝殿右手の社務所で受付
授与品 御札、破魔矢、交通安全お守り各種、地車首掛け守り、安産お守りなど。
アクセス 〒632-0014 北葛城郡広陵町弁財天399。近鉄田原本線・箸尾駅から徒歩約15分。駐車場なし。
連絡先 電話:0745-56-2594