法華寺と海龍王寺の境界か 溝跡と塀跡を検出
奈良市法華寺町の発掘調査で、奈良時代(8世紀)の法華寺と海龍王寺の寺域や、法華寺建立以前に存在した藤原不比等・光明子(後の光明皇后)邸宅の敷地の境界を示す可能性がある溝跡や塀跡が見つかった。奈良文化財研究所(奈文研)が「奈文研発掘調査報告2024」で明らかにした。両寺の境界は分かっておらず、奈文研は「寺域に関する重要な情報を得ることができた」としている。
法華寺のある場所には、もともと藤原氏の邸宅があり、不比等の死後、娘で聖武天皇の皇后となる光明子が邸宅を引き継いだ。皇后宮とした後、総国分尼寺の同寺を建立した。海龍王寺は続日本紀や正倉院文書などに「隅院」「隅寺」として記されている。
調査地は法華寺旧境内の東北部、海龍王寺旧境内の西北部で、両寺の境界が想定される位置。道路建設と宅地造成に伴い、2022、23年度に計約863平方メートルを調査。南北溝5条、掘っ立て柱塀2列、掘っ立て柱建物8棟、大型の穴などを検出した。
そのうち南北溝2条(現存幅20~60センチ)と、東西塀がT字状に接続する南北方向の掘っ立て柱塀(長さ約33メートル以上)は敷地の境界を示すと考えられる。遺構の時期から、奈良時代前半の不比等・光明子の邸宅や、その後の法華寺と海龍王寺の旧境内の寺域に関連する可能性がある。
大型の穴は東西約2・2メートル、南北約4メートル、深さ約1メートル。墨や木炭を含み、多量の瓦や土器が出土した。瓦には藤原宮・京や飛鳥地域から平城京遷都に伴い搬入したとみられるものもあった。瓦ぶきは格の高い建物が存在したことを示す。遺物の年代から、皇后宮を造営する際に不比等邸・光明子邸の不用品を廃棄したと考えられる。
掘っ立て柱建物群は倉庫のような小型の建物から、南北に廂(ひさし)が付く大型の建物へと変遷し、土地の利用形態が大きく変化したことも分かった。
奈文研の川畑純主任研究員は「この土地の区画や利用に関する重要な情報が得られた。現在の田の境界も古代のものを踏襲した可能性があり、周辺の測量や調査のデータを参照してさらに検討を進めたい」と話す。
「奈文研発掘調査報告2024」は奈文研が運用する「全国遺跡報告総覧」でPDFデータを全文無料公開する。