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【インタビュー】奈良大准教授・相原嘉之さん - 斉明朝の「狂心渠」ルート復元

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 飛鳥時代(7世紀半ば)に掘削されたという「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」。その経路について考察する論文を、相原嘉之・奈良大学准教授(日本考古学)が発表した。飛鳥に石材を運ぶために掘られ、民衆から非難を受けたという溝(運河)はどのようなルートだったのか。日本書紀の記述や発掘調査の成果を基に、相原氏に解説してもらった。

 

 ―狂心渠とはどのような溝だったのでしょうか

 

 日本書紀の斉明天皇2(656)年是歳条には、香具山の西から石上(いそのかみ)山まで運河を掘り、石上山の石を舟200隻に積んで宮殿の東の山に石垣を造ったとあります。運河の工事には3万人余りを要し、あまりの大規模な土木工事に当時の民衆からは「狂心渠」と非難されました。

 

 「宮東山」と考えられているのは、飛鳥宮跡(奈良県明日香村岡)の東方の丘陵にある酒船石遺跡です。丘陵の頂部には謎の石造物「酒船石」があります。丘陵中腹では石垣が見つかっており、「宮東山の石垣」だと推定されています。

 

「宮東山の石垣」と推定されている酒船石遺跡の石垣=明日香村岡

 

 その石垣の石材は、天理市の豊田山で採石される凝灰岩質細粒砂岩(通称・天理砂岩)であることが判明しています。「石上山」は豊田山と推定できます。

 

 さらに酒船石遺跡周辺では、発掘調査で狂心渠と考えられる溝が確認されています。狂心渠は香具山の西からではなく、「宮東山」(酒船石遺跡)から延びていたと考えられます。

 

 つまり、狂心渠のスタートとゴールは決まります。スタートは宮東山(酒船石遺跡)、ゴールは石上山(豊田山)になります。

 

「石上山」と推定されている豊田山=天理市

 

 ―発掘調査で狂心渠の痕跡はどこで見つかっていますか

 

 飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)のすぐ西側、飛鳥東垣内遺跡では7世紀中ごろの南北大溝が見つかっています。当初の幅は10㍍、深さ1.3㍍。飛鳥地域で検出される溝と比べ大規模なもので、物資運搬用の運河と推定されています。狂心渠と推定できる大溝です。

酒船石遺跡の周辺

 

 そのほか、酒船石遺跡東側谷筋の調査区群、飛鳥池東方遺跡(同村飛鳥)、飛鳥宮ノ下遺跡(同)、飛鳥寺の北方(同)、奥山廃寺の西方(同村奥山)、藤原京左京六条三坊(橿原市木之本町)でも溝や流路の跡が検出されています。

 

 酒船石遺跡の丘陵東裾では現在も小規模な小川が流れ、下流にある飛鳥東垣内遺跡の横(西側)では中の川が流れています。上記の遺跡はこれらの川沿いに位置しています。狂心渠は断片的に確認されていると言えます。

 

狂心渠と考えられる南北大溝が見つかった飛鳥東垣内遺跡(写真左奥)の横を流れる中の川=明日香村飛鳥

 

 飛鳥寺の北方には、古代の幹線道路、山田道が東西に通っています。山田道は現在の道路拡幅に伴い発掘調査が実施されましたが、狂心渠と推定される溝は見つかっていません。調査が行われていない中の川の流れる場所しか、道を横断する箇所がないことになります。山田道より南では中の川が、狂心渠の基本的なルートと推定できます。

 

山田道(写真奥)を横断する中の川=明日香村飛鳥

 ―山田道以北はどのようなルートが考えられますか

 

 問題は大官大寺(明日香村小山)の周辺です。候補としては三つのルートが想定できます。

 

 まず一つ目は、現在の中の川のルートです(下図①)。これは藤原京の時代に建立された国家筆頭寺院、大官大寺の旧境内を貫通し、現行の水田に沿って直角に曲がりながら流れています。藤原京廃都後に条里地割が整備されるのに合わせて、屈曲していることが分かります。

大官大寺周辺の「狂心渠」のルート候補

 

 二つ目は、①の途中から西に屈曲せずにそのまま北に延び、大官大寺の寺域のすぐ東側を流れるルートです(上図②)。発掘調査で南北大溝が確認され、大官大寺造営中の藤原京期に存続していたことが分っています。北端では北東に向きを曲げます。

 

 三つ目は、奥山廃寺(明日香村小山)の西方から真北に延びる流路の痕跡です(上図③)。地形の一段低い水田が、幅40~50㍍で南北一列に連なっています。流路痕跡の北端の水田は小字名が「大湫(おおのふけ)」「西湫(にしのふけ)」。湿地を示す地名で、東西に細長い水田が南北に連なっています。

 

地形の低い水田が南北に連なる流路の痕跡(写真中央から左手前、北から撮影)

 

 まとめると、①は新しい時期の可能性が高い。では②と③とで比べると、③は中の川が山田道を横断する場所の北延長上に当たり、本来のルートに近いと考えられます。

 

 一方、②は藤原京期に掘削されたとすると、大官大寺造営との関係が推測できます。大官大寺の造営資材を運ぶため、③のバイパスとして運河が掘られたのでしょう。②の流れが北端で北東に向きを変えるのも、③の流路に合流するためだと考えられます。

 

 ③ルートの北端からは、香具山の南裾を西に流れると推定できます。そのとき日向寺跡(橿原市南浦町)の存在が問題となります。

 

 日向寺は現在の地形から、微高地にのる最大150㍍四方の範囲が寺域と推測されます。その範囲内で実施された調査では流路が確認されていないため、狂心渠は寺域を南にややう回するルートが想定されます。

 

香具山の周辺

 

 現在の中の川は香具山の西裾を北上します。西裾の藤原京左京六条三坊(現在の奈良文化財研究所の庁舎がある場所)では、過去の調査で南北溝が検出されています。

 

香具山の西麓から北上する中の川=橿原市下八釣町

 

 さらに北上した中の川は、米川と合流します。酒船石遺跡から米川までの狂心渠は、ほぼ現在の中の川のルートで確定できます。

 

中の川(左上)と米川の合流地点=橿原市出合町

 

 ―米川から北ではどのような経路が考えられますか

 

 発掘調査では狂心渠の痕跡が見つかっていません。大和盆地南半の河川は、基本的に南東から北西に流れています。中の川と米川の合流地点から(北北東方向にある)石上山までのルートは問題です。考えられるのは①石上山までの直線運河、②川を利用した経路、③古道の側溝運河を利用した経路です。

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