朝ドラ「ブギウギ」大和礼子とOSK初代トップスターの共通点。伝説のバレリーナ飛鳥明子が命を賭けて産んだ娘の思い
「大和礼子」のモデルはだれ?あこがれのトップスターの真実
松竹楽劇部(現在のОSK日本歌劇団)の初代トップスター飛鳥明子
優雅なドレスをまとい、気品にあふれた表情でダンスのポーズをとるこの女性は飛鳥明子(1907~1937年)。NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」主人公のモデル・笠置シヅ子が所属した松竹楽劇部の初代トップスターです。
松竹楽劇部はOSK日本歌劇団の前身。1922(大正11)年に創設されたこの劇団はいつの時代も圧倒的なダンス力を誇り、「ブギウギ」でも梅丸少女歌劇団(USK)のレビューガールに扮した多数のOSK劇団員が劇中のダンスシーンを盛り上げました。
飛鳥明子の舞台姿
大和礼子は飛鳥明子?
さて、「ブギウギ」で蒼井優さんが演じた大和礼子と実在の飛鳥明子にはさまざまな共通点があります。まず、飛鳥はバレエの名手で稽古熱心。「当時、松竹座五階にあった稽古場で、いつも一人で練習していた」「練習、練習、また練習…そのうち、色白な肌がピンク色になってきて、すごく綺麗だった」などのエピソードが伝わっています。
さらに、「桃色争議」の責任を取って松竹楽劇部を退団し、音楽家・片野実雄(1903~1981年)と結婚。振付家・舞踊教師として活動するも、ひとり娘を残して29歳の若さで死去…とくれば、これはもう、劇中の大和礼子の生涯とぴったり重なります。
飛鳥明子の舞台姿
母の声が聞きたい
「母が舞台人だったことは、幼い頃から何となく知ってはいましたが、長い間、こんな大スターだとは思っていませんでした。父は母のことを何も話してくれなかったので」。そう言って飛鳥の写真をしみじみ見つめるのは、ひとり娘の土井嘉子さん(86)=大阪府四条畷市。
「この世に一緒にいられたのはわずか8カ月と15日。母の声を聞いてみたいですね」。嘉子さんはこれまでにも飛鳥に関する取材を受けたことがありますが、自身が表に出ることはあえて避けてきました。
「でも朝ドラを見ているうち、心の奥にしまってきた母への思いがあふれてきて。生前の母の姿をご存じの方が、もしも、まだ、どこかにおられたら…。母のこと、ほんの少しでも聞かせていただきたい、という気持ちになりました」。
たまたま知り合った松竹楽劇部のスター東條薫などから母のエピソードを聞いてはいるが「どうしても断片的で、点、点、点…という感じなんですね。今から線でつなぐことは難しい、と分かってはいますが、少しでも母を知りたい」と嘉子さんは言います。
母の写真を手に思いを語る土井嘉子さん
ストイックなダンスの名手
飛鳥明子(本名・松田貞子)は大阪・高石に生まれました。松竹楽劇部の誕生時から舞台に立ち、後に初代トップスターとなります。つま先立ちで踊るトウ・ダンスの名手であったことから、バレリーナとして語られることが多いですが日舞も得意でした。
「OSK日本歌劇団100周年誌 桜咲く国~OSKレビューの100年」によると、素足での東洋的舞踊を自身の振り付けで披露するなど、舞踊全般に情熱を注いでいたようです。劇団の歩みを多くの写真を交えて詳細に綴る100周年誌では、飛鳥の舞台にかける情熱の激しさを物語るエピソードも語られています。
「オーケストラの演奏が少しでも乱れると、舞台で踊りながら指揮者をグっとにらみつけた」「日舞の場面で地方(じかた)のテンポの悪さに『アッと言ふ間に抱えた小道具の三味線をポキンと真二つにへし折って昂然と』引っ込んでしまった」などなど…。
100周年誌の記述は「これが通せるだけの実力は、『人の及ばざる熱と努力の結晶』でもあり、レッスン量は人一倍であった」と続き、笠置シヅ子ら後輩に大きな影響を与えた飛鳥の舞台への姿勢を紹介しています。
飛鳥明子の舞台姿
事実は小説より『稀(き)』なり
ドラマの中で大和礼子と結婚したのは股野義夫。森永悠希さんが演じた股野は、『泣き落としのようなプロポーズ』で大和と結ばれる少し頼りないピアニスト。名前こそ実在の飛鳥の夫・片野実雄に似ていますが、その人物像はまったく違うようです。
指揮者に憧れていた片野実雄が気に入っていたという自身の写真
片野は東京生まれ。早稲田大学を中退して音楽の道に進んでいます。自宅近くに住んでいた山田耕作に師事していたそうです。父・片野実之助が大阪高商(後の大阪市立大学)の学長に任命されたため、1915(大正4)年に一家で大阪に移り住みました。
生涯、標準語のアクセントで話していたという片野。写真を見ても、とても格好良い男性ですね。雑誌「大阪人」の連載「OSKストーリー 80年の夢」(松本茂章著)では、往年のOSKスター美鈴あさ子(アーサァ美鈴)が「片野実雄さんは二枚目のおしゃれな方。ハイカラな顔立ちで、細い体でしたね」と回想しています。
二人が結婚したのは1933(昭和8)年。飛鳥が舞台でフラメンコを踊った時、片野がギター伴奏をしたのがなれそめでした。
洋装の結婚衣裳。飛鳥は日常でもワンピースを好んでいたという
飛鳥と片野。旅の途中のスナップだろうか
片野は戦後、宝塚音楽学校でも教えていましたが、1954(昭和29)年の月組公演「サッカ・ローラ」では出演者として宝塚大劇場に立っています。ウクレレを弾く役で、ひとり娘の嘉子さんによると「出演者がウクレレを弾けなかったので代わりに出演した」とのこと。
ドラマの登場人物よりドラマチックな実在の片野。松竹と宝塚、日本の2大歌劇に深くかかわったという点でも非常に珍しい「稀」な存在です。
つながる命
しかし、二人の結婚生活は4年で幕を閉じることになります。嘉子さんを身ごもった時、飛鳥はすでに結核を患っていました。
療養中の飛鳥明子
「私をとるか、母をとるか、というような状態でした。母が『頑張ります』といって、私を産んでくれたのです。その後、病気が悪化して…」。飛鳥が自らの命と引き換えに、この世に送り出したひとり娘の嘉子さんは長男・孝司さんに続いて誕生した長女に『明子』と名付けました。
1937(昭和12)年元旦に誕生した嘉子さん
封印された飛鳥明子
「父は寡黙な人で、母のこと、何も話しませんでした。私が覚えているのは、子どもの頃に父の靴を磨いた時、目立つところだけ光らせたらいいや、と思ってやっていたら『嘉子、ここがまだ綺麗じゃない。お母さんはもっと誠実だったよ』と言われたことだけ」。
舞台での活躍の痕跡も家の中にはなかったといいます。今、嘉子さんが保管している飛鳥明子の資料は飛鳥の付き人をしていた片野の妹・周子(かねこ)さんが持っていたもの。片野は飛鳥が亡くなった6年後に再婚しています。もしかしたら、新しい奥さんに気を使って、大スター飛鳥明子の気配を家庭から消していたのかも知れません…。
舞台人・飛鳥明子を娘の前では封印していた片野実雄が一度だけ、封印を解いたことがありました。「小学校高学年の頃、OSKの大スター秋月恵美子さんが出ておられた舞台に連れて行ってもらいました。観客席ではなく、父の仕事場でもあるオーケストラボックスの中から見上げたので『(踊っている人の)足が見えないから(ステップが分からず)つまらない』と言ったら、父は後から誰かに『普通の子どもは綺麗な衣裳に目がいくものなのに、嘉子はやっぱり踊りの資質があるのかも』と話していました」。片野は嘉子さんの「母親譲り」がうれしかったに違いありません。
嘉子さん3歳の頃
途切れた糸
飛鳥が亡くなった後、実家の松田家と片野家は疎遠になってしまいました。発端は飛鳥が結核になった時、松田家が娘を引き取って治療する、というのを舅の実之助が拒んだことのようです。
さらに、母を亡くした嘉子さんを飛鳥の姉が引き取って育てる、と申し出ましたが、今度は片野実雄がひとり娘を手放さなかったことが追い打ちをかけ、両家は気まずくなってしまいました。こうして嘉子さんは母方の親族から飛鳥の話を聞く機会を失ったのです。
遺影にも使われた飛鳥明子の写真
バレエがつなぐ母娘の縁
飛鳥がバレエの名手とうたわれたダンサーと知る以前から、嘉子さんはバレエへの強い思いを持っていました。「父の枕の下に『バレエを習いたい』って何度も手紙を入れましたが、ついに返事はなし。社会人になった18歳の時、初めて西野バレエ団の門を叩きました」。
ビギナークラスでレッスンを始めるとすぐ「上のクラスへ上がりなさい」と言われた嘉子さん。「基礎を十分やっていないと上に上がってもきっちりできない」と断ったといいます。嘉子さんは「それほど体が柔軟だったわけではない」そうですから、これはまさしく飛鳥明子の遺伝子なのではないでしょうか。
ドラマで翼和希さんが演じた橘アオイが大和礼子の葬儀で股野義夫に抱かれた赤ちゃんにかけた言葉、「きっと歌と踊りの天才になるわ、あんた」を思い出しますね。しかし、バレエのレッスンは一年足らずで終了。
当時、バレエの月謝はかなり高価でした。「戦争で父の仕事は減り、戦後は進駐軍のクラブで演奏していたものの、当時、片野家に余裕はなく、バレエは諦めました」という嘉子さん。
「今もクラシックバレエを観ますが、踊りを見ると、つい、指先まで神経が行き届いているかしら…とか気になってしまうので、一流のダンサーが好き」とのことです。
バレエのレッスン中の飛鳥明子
飛鳥明子はトウ・ダンスの名手だった
OSKの未来にエール
長年、交流がなかったOSKと嘉子さんをつないだのは20年前、OSKが当時の親会社の支援打ち切りという試練に遭遇したことでした。
祖母の所属した劇団の危機に心をいためた嘉子さんの長男・孝司さんは2003年5月、あやめ池円型大劇場(奈良市、2004年に閉館)でOSKを初観劇。その時、出会った元OSKの歌姫で引退後も劇団の職員としてOSKを支えた長谷川恵子さんに「私が飛鳥明子の孫です」と名乗ったことがきっかけでした。
その後、見事に存続を果たし、昨年100周年を迎えたOSK。嘉子さんと孝司さんは昨年、大阪松竹座で開かれた100周年記念式典にも出席しました。
「『ブギウギ』でのラインダンス、素晴らしかった。OSKはこれから、もっと、もっと伸びていきはると思いますよ」。母が活躍した劇団にエールを送る嘉子さん。柔らかな笑顔が素敵です。
嘉子さんがどうか、写真でしか知らない母、舞台人・飛鳥明子、本名の片野(松田)貞子の足取りを知る人に出会えますように。
オフ・メイクの飛鳥明子
舞台衣装の飛鳥明子