質問「博物館の仏様に誰も手を合わさないのに驚きました。誠に残念です」 - 我知(がち)ーお坊さんに聞いてみる(2024年8月21日)

【質問】
奈良国立博物館の空海展に行ってまいりました。平日の午前中にもかかわらず、観覧者は正に群衆と化しており、こんなにも多数の方々が、御大師様に関心を持たれるのはうれしく、他方、誰一人展示の仏様に手を合わせないのには驚きました。信仰うんぬん、御大師様への讚迎(さんぎょう)心うんぬんはさておき、聖なるものへの畏敬(いけい)というものはないのでしょうか。あまつさえ脱帽することない年配者も多数。博物館展示の仏様ですから、撥遣(はっけん=魂を抜く儀式)済で、単なる絵だ、工芸品だとお考えなのでしょうか。いや、撥遣うんぬんを考えていらっしゃる方はおりますまい。永年拝まれた諸仏が、形ばかりで撥遣されるはずはなく、いや、御大師様がご開眼されたであろう仏様を撥遣なぞ、御大師様信者からすれば不遜の一言。小中学生の入場料を無償化し、将来の日本を背負って立つ子どもたちの仏心を育む場が、多くの畏敬の心を忘れた大人たちの姿に接する場となったことは誠に残念でなりません。(60代男性)
【回答】
堀内 瑞宏(秋篠寺住職)
【我知なヒント=子どもも 大人も 他人も 自らも 成長の途中である】
毎度分かりにくい俗世坊主の私見ですみませんが、大人子どもに関係なく、「仏像は成長するもの」です。幼少期の者にとって寺院は特別な場所ではなく、仏像も木彫りの人形でしかないでしょう。しかし年を重ね、場に適した行動が取れるようになる頃には、気軽に触れられない仏像は骨董(こっとう)品のようなものとなり、社会や人や物に歴史があることを学ぶ頃には文化財へと見方が変わります。
さらに社会に接し、教えられるだけではなく自身で考える環境へと変化するとき、見方そのものを自ら見いだすまでの間、仏像はよく分からないものになるのです。そして、日々の生活の中で誕生や別離に触れたとき、自然な流れで祈るという行為を体験し、その結果「自分の思いをゆだねられる何か」の対象の一つとして仏像があることに気付くのだと考えます。
ですから質問文の話で言えば、博物館を訪れた人たちの見方は心の仏像の成長度合いによって異なるのです。それに対し画一的な見方接し方を指示することは、見る人の自問を妨げ、心の仏像の成長の芽を摘むことになりかねないため熟慮が必要でしょう。信心をもって尊像として見ている質問者さまのような方からすればもどかしく感じられるかもしれません。それでも展示が滞りなく終了できたのは、尊像をどのカタチで見ていようとも皆が最低限以上の敬意をもって接してくれたからだと感謝をもって受け止め、心穏やかに見守るべきではないでしょうか。
質問者さまも私も来館者も、物心つく前に参った神社仏閣で、もしかしたら砂利をつかんで投げ、親や祖父母に怒られる経験があったかもしれません。皆がそこから始まり、速さの違いはあれども今日まで成長を続けてきました。後に続く子どもたちも、多く寄り道しながらも成長してくれるはずです。「過去から預かったモノを、理解を深めて未来へ託す」。これを博物館の方々と共に滞りなく進めるために、われわれ大人も成長し続けなければなりません。
【我知(がち)ーお坊さんに聞いてみる】
奈良の僧侶が悩み相談や質問に答えるコーナー。お坊さんに相談したい、 仕事や人間関係、恋の悩み、人生相談や信仰・仏教の教え、お寺への質問などが対象です。お坊さんへの質問を募集しています。採用は弊社と回答者で判断し、掲載の有無や掲載日についてお答えすることはできませんのでご了承ください。
【回答者】
興福寺 辻 明俊さん
金峯山寺 五條 永教さん
秋篠寺 堀内 瑞宏さん
宝山寺 東條哲圓さん
【掲載日】
毎月第1、3水曜日「暮らし」のページ・奈良新聞デジタル