奈良県内の重量挙げ普及に尽力 奈良商工高校教諭・宇野達也さん - 出合いを聞く(上)
教授が適性を見抜く のちに競技継続のため教員に
古くは1968年のメキシコシティ五輪でメダルを獲得した三宅義信・義行兄弟、義行氏の実子で2012年ロンドン五輪の銀メダリストの三宅宏実らの活躍で、日本でも知られるようになったウエイトリフティング(重量挙げ)。しかし、実際に競技に触れる機会はそう多くない。奈良県内でのその普及に大きな役割りを果たしてきたのが奈良商工高教諭の宇野達也さん(62)だ。決してメジャーとは言えない競技とどのようにして出合ったのか。
1982(昭和57)年、大阪経済大に進学した宇野さんは、体育の授業に出るたび、熱い視線が自分に向けられているのを感じた。その視線の主は、重量挙げ部の顧問でもあった中尾美喜夫教授。宇野さんが競技に向いていることをひと目で見抜いていたのだった。
「勉強よりも体を動かす方が好きだった」と自認する宇野さんは、中学では卓球部に入部した。が、ほどなく陸上部からスカウトされて砲丸投げに転向する。最終的には北葛城郡記録を出すまでに成長した。
しかし畝傍高校に進むと、砲丸ではなく柔道を選んだ。「単調な動作の砲丸と違い、多彩な技のあるのが魅力だった」からだ。中学時代、柔道部からスカウトされていたことも影響した。砲丸、柔道で錬成した肉体を中尾教授は見逃さなかった。
「俺もスポーツに熱中して学校は落ちこぼれたのでお前と同じだ。そんな奴でも何かが一つあれば輝ける。それには重量挙げが適している」と、半ば強引に理由を付けて勧誘された。それが宇野さんと重量挙げとの出合いだった。
強制的に始めた重量挙げだったが、宇野さんはすんなりと競技になじんだ。というのも、宇野さんが幼少のころ、テレビで放送された五輪の重量挙げを見ながら、ふと「俺、これするなぁ」と思ったという。その予感が的中した形になった。
競技を始めてすぐの大学1年5月の計測ですでに、補助種目のフルスクワットで190キロを記録。翌年には西日本新人選手権で準優勝するなどその後も順調に自己記録を伸ばし、4年の10月に関西学生選抜選手権大会で優勝。その年の鳥取国体にも出場した。
大学は同好会上がりの部であったため満足いく指導が受けられなかった。練習以上に、仲間たちと挙げ方について議論し競技理論を構築していった。「結果の出せるベストなフォームはどういうものか、など朝まで語り合った」。それが後年、指導者になる下地となった。
学生の本分である学業では、卒業論文のテーマに「多変量解析」を選んだ。「勉強はあまり好きではない」と話す宇野さんは、自分の興味と学問をつなげる方法をひらめき乗り切った。学生選手100人からデータを集め、スクワットやプレスなどの補助種目と競技自体との関連性をコンピューターを駆使して解析した。「目的は自分の練習に生かすため。普通の学生ではなかったかも」と笑う。
大学卒業後はソフトウェア会社に就職し、それと平行して競技を続けた。使える時間は限られる。ウォーミングアップをする時間も惜しくバーベルを挙げていると、ついに腰を痛めてしまった。それで宇野さんは、「時間に追われる競技生活は無理だ」と悟ることになった。
そこで宇野さんが選んだのが教員の道だった。講師からスタートし五條高で半年、山辺高では勤務しながら通信教育で商業の資格を取り正式教員に。国体などを目指し競技を続ける環境は整ったが、もう一つの目的であった選手の指導はなかなか実現しなかった。=つづく=(有賀)
2024年8月7日付・奈良新聞に掲載