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息づく中将姫伝説 当麻【当麻寺】 - 大和路能舞台を訪ねて【3】

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 能や文楽など、その伝説が古くからさまざまな作品に取り上げられてきた中将姫。ゆかりの深い当麻寺(葛城市)は612(推古20)年、聖徳太子の弟、麻呂子(まろこ)親王が創建した万法蔵院に始まる。後に中将姫が入寺し、綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)=国宝=を一晩で織り上げたとされる。中将姫を極楽浄土に導く様子を再現した「練供養会式」(国重要無形民俗文化財)が毎年4月14日に同寺で営まれる。

 

中将姫の小像を乗せた蓮台を手にする観音菩薩を先頭に、来迎橋を練り歩く二十五菩薩=4月14日、葛城市当麻の当麻寺(撮影・牡丹賢治)

 

 

 大和(奈良)と河内(大阪)を結ぶ古代の道、竹内街道。当麻寺はその北側、二上山の麓に伽藍(がらん)が広がる。近鉄当麻寺駅から歩くこと十数分。雄岳、雌岳の2峰から成るランドマーク、二上山が目に飛び込む。春分、秋分の頃、薄闇が迫る中、日が山の向こう側に沈む。漆黒に染まる山影の上はあかね色に染まり、浄土を思わせる美しさだ。

 

 すぐ近くにたたずむ石光寺には「染の井」があり、中将姫が當麻曼荼羅を織るためハス糸を水に浸したところ、5色に染まったという。創建は飛鳥時代後期とされ、白鳳時代の石仏などが残る。近年、当麻寺とともにボタンの美しい花寺として知られ、4月末から5月上旬にかけて、大輪の花が美を競う。

 

 中将姫の命日に合わせて営まれる当麻寺の練供養会式を久しぶりに取材した。汗ばむ陽気に恵まれ、境内は千年以上続くといわれる伝統行事を心待ちにする参拝者であふれた。極楽浄土を象徴する曼荼羅堂(本堂=国宝)と現世に見立てた娑婆堂の間に約120メートルにも及ぶ仮設の「来迎(らいこう)橋」が架かる。午後4時過ぎ、二十五菩薩に扮(ふん)した一行が曼荼羅堂を出発した。

 

 金色に輝く面を着けた観音菩薩が中将姫の小像を蓮台に乗せ、本堂に向かう。左の金堂、その奥に塔頭(たっちゅう)伽藍、さらに東塔(国宝)、西塔(同)を望む。

 

 道中、観音菩薩は両手で蓮台を左右にすくい上げる所作を繰り返すことから「スクイボトケ」、勢至菩薩は合掌のポーズで続くことから「オガミボトケ」とも呼ばれる。

 

 練供養が無事、終わった。日は沈み、空はあかね色に染まった。

 

ボタンの花が美を競う石光寺。
後方、染の井=葛城市染野

 

 

「早舞」が見どころ

「当麻」(夢幻能、五番目物)

 

 筆者が学生時代、中世文学の講義で先生からこんな話を聞いた。

 

 「中世の物語において、スーパースターは聖徳太子と中将姫です。この時に一大ブームが起きました」。こう記すと非常に軽い印象になってしまうが、中世は日常生活の中で絶えず戦があって家を焼かれ、飢饉(ききん)で多くの人が亡くなった。そんな不安な時代に生きた人々が「昔、こんなすごい方がいらっしゃったのだよ」と太子や姫に憧れ、厚く信仰して、その足跡を訪ねたり逸話を絵巻物に仕立てたりして心の安らぎを求めたのは自然なことだったに違いない。

 

 旅僧(ワキ)が従僧(ワキツレ)2人と、三熊野(みくまの)から大和二上山の麓にある当麻の寺を訪れる。そこへ、年老いた尼(前シテ、面〈おもて〉は姥〈うば〉)が連れの女(前ツレ、面は小面)と参拝に訪れ、弥陀の教えをたたえる。

 

 僧が訳を尋ねると、老尼は、中将姫がハスの糸を染めた染寺(そめでら=石光寺)の「染殿の井(そめどののい)」や、その糸を掛けて干した桜の木、当麻寺のことを教える。また姫がこの寺に籠もって生身の弥陀を拝みたいと願って一心に祈ると、ある夜、老尼姿の生身の弥陀如来が現れたことを語る。

 

 そして、きょうは春の彼岸の中日で法事のために姿を変えて現れたと話すと、光が差して花が降り、良い香りがしてきて、老尼と連れの女は紫の雲に乗って姿を消す。(中入)

 

 僧は日参する当麻寺門前の者(アイ)からも寺のいわれを聞き、弥陀如来と中将姫が仮に姿を現したことを知る。これを化尼(けに)や化女(けにょ)という。再び奇特を見ようとすると、歌舞の菩薩の姿の中将姫(後シテ、面は増=ぞう)が現れ、浄土経をたたえ、阿弥陀経を唱えながら舞を舞う。姫が弥陀の教えを説くうちに、僧の夢は覚めていく。

 

(撮影・写真提供=秦春夫)

 

 

 作者は世阿弥。当麻寺に伝わる曼荼羅伝説を基にした演目である。中将姫は右大臣豊成(とよなり)の娘。幼いときに生母が亡くなり、後添いの継母(けいぼ)に憎まれる。継母は悪だくみして豊成をだまし、配下の武士を使って姫を雲雀山(ひばりやま)に棄てさせたが、かわいそうに思った武士がこれを養育する。豊成は狩のときに姫と再会し邸に連れ帰る。このくだりを描いた「雲雀山」という能もある(作者は不詳)。姫は生母への供養・悟心から出家を決意し、剃髪(ていはつ)して当麻寺に入り、化女の助けによってハス糸で曼荼羅を織り、その功徳で往生を遂げた。

 

 ワキの僧のモデルは一遍上人といわれる。一遍と時宗を背景とするワキを設定し、當麻曼荼羅の縁起を重ね合わせた構想となっている。「弥陀は導く一筋に 心ゆるすな南無阿弥陀仏と」など随所に時宗の句が多用されている。当時、熊野権現に詣でてから大和の当麻寺、石光寺に立ち寄る(流派によっては和泉国を経由している)ことは、極めて重要な教義上の意味を持っていたという。

 

 前シテの姥は花帽子の姿。花帽子は能のかぶり物の一つ。出家した僧形の女性の役に用いる。白や水浅葱(みずあさぎ)色(緑がかった明るく薄い青色)などに染めた広幅の平絹を袷(あわせ)にしたもので頭全体を包み、目と鼻、口の部分だけを出して顎の下で留める。裾は肩から胸の辺りまでを覆うように着ける。高僧が用いた頭巾からきているとかで、上品なたたずまい。後シテの中将姫の精魂は、頭に白蓮を立てた天冠をいただき華やか。後場で姫は、生前に書写した「称讃浄土経」の経巻をささげて登場。この経巻をワキの僧に授けると=写真=、全ての生きとし生けるものを救うという阿弥陀仏の誓いをたたえて舞を舞う。「早舞(はやまい)」といわれる舞で後場の見どころ。これは位の高い舞で、世阿弥作では「源氏物語」の光源氏のモデルともいわれた源融(みなもとの・とおる)を主人公にした「融」が有名。

 

 能の基本の構えは、重心はつま先に腰は後ろに引き、やや前傾姿勢をとる。1曲の長さは約1時間。面と重い装束を身に着けたシテ方の多くは男性だが、この姿勢を取り続けるのは男性でも結構大変。曲にもよるが、見ているとシテは汗だくで心拍数が上がっているのが客席にも伝わってくる。

 

 昔、古典芸能の舞を舞う体験をしたとき、動きはゆっくりだがなかなか思うように動けなかった。どうも、古来日本人の動きは右手と右足、左手と左足は常に一緒であったらしい。相撲の四股やてっぽう、突き出しを思い浮かべてほしい。舞も同じで右足には右手、左足には左手を添えて一緒に動く。

 

 しかし今は、手足の動きは交互になっていることが多い。だから、現在の私たちが古典を見ていると懐かしいけれど、いざ習得しようとするとぎこちない動きになってしまう。今の日常の動きと違うからだろう。現在の私たちから見て古典の動きに違和感が生じてしまうのは仕方がないことだが、そこには長年培われ、優れて洗練された動きがあることを感じてほしい。(藤田早希子)

 

 

<能楽用語>

 

 【姥】老女に用いる面。

 

 【増】増女(ぞうおんな)のこと。「ぞう」とも呼ばれ、世阿弥と同時期に活躍した田楽役者・増阿弥(ぞうあみ、生没年不詳)が創作した面といういわれがあるが真意は不明。若い女性の「小面」の面より年齢の設定が上で、年が増している女性の意味合いがある。端正な目元が印象的。

 

 【能装束】特に美しいのは女性の役柄に用いる装束。代表的なものは、金糸・銀糸・色糸をふんだんに使い立体的な模様を織り出す「唐織(からおり)」や、刺しゅうと金銀の箔を摺(す)ることで模様を出す「縫箔(ぬいはく)」、舞を舞う役柄が羽織る薄手の「長絹(ちょうけん)」。小物もあり、仮髪の上から締める「鬘帯(かずらおび)」というリボンのようなものにも手の込んだ刺しゅうがあしらわれている。また鬼神や武将の霊など男性の役に用いる「法被(はっぴ)」と呼ばれる上着や、「半切(はんぎり)」と呼ばれる袴(半切袴の略称)には、稲妻や波などの大きな柄が大胆に描かれている。能装束の平均の重さは10キロぐらい。曲によっては20キロになることもある。

 

 

 

2024年5月23日付・奈良新聞に掲載

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