【連載】奈良と富士<2>富士を詠んだ万葉歌人・山部赤人
山部赤人墓と伝わる五輪塔
奈良県宇陀市と奈良市にまたがり、「大和富士」と呼ばれる額井岳(標高816メートル)。南東側の中腹の尾根上にひっそりとたたずむ石造物がある。富士を詠んだ万葉歌人・山部赤人の墓と伝わる五輪塔だ。
五輪塔は総高約1.5メートル。「榛原石」と呼ばれる地元の流紋岩質溶結凝灰岩製。水輪(下から二つ目の石材)がたる形で、風空輪(一番上二つの石材)は一つの石材を溝で区別したもので扁平な球状。全体的にずんぐりとした形状から鎌倉時代前期のものと考えられている。
寛政3(1791)年刊行の名所案内記「大和名所図会」には「赤人塚 山邊村にあり土人圓塚(まるづか)といふ」と記述がある。享保21(1736)年刊行の「大和志」にも「赤人ノ墓」と記されている。宇陀市観光課は「江戸時代には山部赤人の墓として認識されていたようです」と話す。
五輪塔がある住所は宇陀市榛原山辺三。明治8(1875)年、山辺村と山辺中村、山辺西村の三村が合併して現在の地名になった。山辺は文字通り、額井岳の山裾、山のヘリに由来するとみられている。
地名と人名が結び付き、赤人の供養塔として五輪塔が建てられたのだろうか。「大和富士」がいつから呼ばれていたのかは不明だが、山部赤人を介した富士山と大和富士の関係が興味深い。
山部赤人の万葉歌
山部赤人の富士の歌は「百人一首」で有名だ。ただ歌はもともと万葉集に収録されたもの。奈良県立万葉文化館の井上さやか指導研究員は「万葉集の時代と百人一首の時代とは約400年の開きがあります。そもそも赤人の名前の字が変わっているんです」と解説する。
万葉集では「山部赤人」だが、鎌倉時代の「新古今和歌集」(百人一首)では「山辺赤人」と記される。
「そして歌の形にも変化がみられます」と井上さんは紹介する。
万葉集 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける
新古今集 田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
もとの万葉集では「田子の浦ゆ」「真白にそ」と表す部分。新古今和歌集では「田子の浦に」「白妙の」とそれぞれ変わっている。
そして歌の最後。万葉集は「降りける」(降った)に対し、新古今和歌集では「降りつつ」(降り続いている)。
井上さんは「万葉集では『雪が降った』と過去形なので、今は山頂が見えている状態です。一方、新古今和歌集では『雪が降っている』と現在進行形なので、実は山頂が見えないはず。意味が異なるんです」と説明する。
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