「静かな道路、深い陰影、村の街路を長閑…
「静かな道路、深い陰影、村の街路を長閑(のどか)に歩き回る森の鹿」。大森貝塚の発見で知られるアメリカの動物学者モースは、1879(明治12)年に訪れた奈良の風景をそう記した。
福島大などの研究チームは、奈良公園の鹿が独自の遺伝子型を持っていることを突き止めた。「神の使い」として千年以上にわたって集団を維持してきたことを示すという。
奈良公園の鹿は約1200頭。1957(昭和32)年に国の天然記念物に指定され、大切に保護されてきたが、歴史をさかのぼると絶滅の危機が2回あった。
最初は明治時代の初め。県令(県長官)だった四条隆平が農作物被害の防止を理由に鹿を春日野の一角に閉じ込め、病死する鹿が急増、38頭まで激減した。鹿に馬車をひかせたとも伝わり、神鹿受難の時代だった。
もう一回は太平洋戦争中で、食料難から密猟が横行、79頭まで減ったといわれる。
決して安泰続きではなかった奈良の鹿だが、人と共存を続ける中で集団を維持し、独自の進化を遂げてきた。神鹿の在(いま)す奈良は県民の誇りでもある。(増)