大和古寺お参り日記【35】 - 般若寺(上)
ようやく柔らかくなった日差しに秋風が心地いい朝、コスモスが咲き始めた奈良坂の般若寺を訪れた。
飛鳥時代、高句麗の慧灌法師(えかんほうし)によって開かれ、都が奈良に移った後の735(天平7)年、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を納めたことから般若寺と名前が付いたとされる。
当時は南都六宗の一つ、三論宗の教えを学び、般若心経の「空(くう)」を研究する学問の寺だったという。平安時代には千人規模の僧が学ぶ大寺院として栄えたが、1180(治承4)年に平家の南都焼き討ちで伽藍(がらん)が焼失。現在の穏やかな境内に残像を見るのは難しいが、京都から奈良への第一関門に位置する同寺では、激しい戦闘が繰り広げられたと伝わる。
伽藍が再建された鎌倉時代には、西大寺の叡尊(えいそん)上人によって祭られた「丈六文殊菩薩」をシンボルとして、生活に困った人や病人を救済する福祉施設として信仰されたという。
「当時は北側に施設、南側にはお墓が広がっていたと伝わっています」と工藤顕任副住職。文殊信仰には困窮(こんきゅう)者を生きた文殊菩薩と考える教えがあるといい、「救済することで供養になり功徳を頂けるとお経に書かれています」と教わった。日本の福祉の原点に文殊様の教えがあることに驚いた。
残念ながら、この大きな丈六文殊は戦国時代に松永久秀の焼き討ちによって焼失してしまう。絵図と脇侍の刀のみが宝蔵堂に保管されている。
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