奈良ゆかりの文人 - 奈良大学文学部 光石亜由美先生インタビュー
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2022年は森鴎外(1862~1922)没後100年となる。小説「舞姫」や「山椒大夫」などを代表作とする鴎外は、1918(大正7)年から22(同11 )年の間、5回奈良を訪問し、雑誌明星に「奈良五十首」を発表している。鴎外は目に映った奈良をどのように表現したのか紐解いてみたい。また奈良を愛し、奈良市高畑に数寄屋風の自宅を建てて暮らした小説の神様と呼ばれる志賀直哉(1883~1971年)、自然主義文学の小説家であり紀行文作家の田山花袋(1872~1930年)らについて奈良大学日本近代文学専門の光石亜由美教授にお話をうかがった。
森鴎外と「奈良五十首」
ーー鴎外は奈良とどのようなかかわりがあったのでしょうか
小説家で有名な鴎外ですが、本業は軍医で小説家と軍医の二足のわらじを履いていました。陸軍軍医総監、医務局長の職を退いた1年8カ月後の1917(大正6)年12月、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任ぜられています。帝室博物館総長とは、当時東京と京都と奈良にあった帝室博物館のトップです。
その総長の仕事のひとつが正倉院の開閉、曝涼(ばくりょう)を監督するために奈良に出張することでした。 曝涼とは、晩秋の天気の良い日に倉庫などに納められていた衣類や書物、諸道具などに風を通す、虫干しのことです。正倉院には勅封(ちょくふう)の鍵がかけられており、その鍵の開閉に立ち合うのが鴎外の仕事でした。
鴎外の奈良赴任は18(同7)年から21(同10)年までの毎年11月と、22(同11)年5月の計5回。その時々の行動は、東京にいる子たちに手紙で書き送っています。初年度の18年には、曝涼ができない雨の日に、平城宮跡、若草山、垂仁天皇陵、香久山、飛鳥、高円山、百毫寺、などに出かけています。翌19年には「毎日天気がいいのでお蔵にばかし行っていなくてはならない」と愚痴をこぼした手紙を書いたりしています。大安寺と長谷寺に出かけている記録が残ります。翌20年にはほとんど遠出をしておらず、体調がよくなかったようです。
22年1月に「明星」に発表した「奈良五十首」は奈良出張に関連する和歌がまとめられています。