国原譜

罹災(りさい)と再建をこれほど繰り返し…

 罹災(りさい)と再建をこれほど繰り返した寺院は少ないだろう。奈良市の興福寺は奈良時代の創建以来、中金堂だけでも7度の大火に見舞われた。

 伽藍(がらん)の中心となる中金堂は平城宮の大極殿にも匹敵する巨大な建物だったが、享保2(1717)年の火災後は元の規模によみがえることはなく、仮金堂がやっとだった。

 伽藍の半分近くを失ったまま迎えた明治4年には寺領没収となり、築地塀も取り壊された。奈良の人々は当時の県令(知事)、四条隆平を評して「四条は五条でドベタレ」(四条県令は強情で最低)とうわさしたという。土塀の取り壊しと最低を意味するドベタを掛けた酷評だ。

 享保の大火から約300年。興福寺中金堂がよみがえった。7日から5日間にわたって落慶法要が営まれる。

 「蟲(むし)鳴くや 金堂の跡 門の跡」。正岡子規が詠んだ興福寺の情景も、過去のものとなりつつある。天平伽藍の復興はこれからも続く。

 中金堂の完成で、創建時の威容はよりイメージしやすくなった。1300年の歩みに思いをはせつつ、本尊に手を合わせたい。(増)

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