「古の夢」清流に浮かべ 国栖【吉野川】 - 大和路能舞台を訪ねて【2】
今、吉野(吉野町)といえばサクラが有名。春は大勢の観光客でにぎわう。古代は吉野の山々と山裾を縫う清流、吉野川が重宝され、四季を通じてたびたび天皇が訪れた。滞在中に過ごした離宮は発掘調査で建物跡が確認されている。
谷筋に沿って広がる国栖の里。吉野川と集落が一望できる場所に立ち、古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」に思いをはせた=吉野町窪垣内(撮影・牡丹賢治)
都が近江にあった天智朝の末期、皇位継承を巡り緊張が高まる。天皇の願いが息子である大友皇子(おおとものみこ)の即位にあると察した弟、大海人皇子(おおあまのみこ)は、天皇の許しを得て吉野に身を隠した。能「国栖(くず)」はそこから始まる。
史実は能とやや異なり、天皇没後、吉野脱出に成功した大海人皇子は東国の豪族の協力も得て挙兵、古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が勃発する。戦いに勝利した大海人皇子は673年、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した。
今冬、吉野を訪れた。近鉄吉野線と並走する国道169号の右手に吉野川が目に入る。川幅も広く悠然とした流れだ。しばらく走ると吉野線は川をまたぎ、吉野山方面へ。国道は川沿いに進む。ほどなく走ると宮滝に。天武天皇や持統天皇がしばしば訪れた吉野離宮の跡と推定される地だ。この辺りは川の様相が一変、巨岩奇岩が両岸に迫り、瀬と淵が交錯する。
能の舞台となった国栖は「ものづくりの里」としても知られ、手すき和紙や割り箸作りが盛ん。この地に紙作りを伝えたのは大海人皇子だという説も。緑豊かな清流の里として、今も親しまれている。実った夢、散った夢―。日本の歴史が動いた地といっても過言ではない。太古のロマンに思いをはせ、訪れたい。
巨岩奇岩が両岸に迫る吉野川、宮滝付近=吉野町宮滝(同)
子方の「動き」注目
「国栖」(四、五番目物)
争いを舞台化した能はたくさんあるが、歴史に名高い「壬申の乱」(672年)を題材にしたのがこの「国栖」(作者不明)である。争いに勝った大海人皇子が飛鳥浄御原宮で天皇(天武天皇)に即位してから1350年を超える。話は大海人が吉野の山中に身を隠したところから始まる。
浄御原(きよみはら)の天皇は、大友皇子に追われて吉野山中へ逃げ、とある民家に入る。漁師で川舟に乗っていた老夫婦(老人=前シテ、老女=前ツレ)は、家の方に星が輝き紫の雲がたなびいているのを見つけ、位の高い人物の訪れを知って急ぎ家に戻っていく。天皇の臣下(ワキ、ワキツレ)が老夫婦に事情を話し、何か食べ物を差し上げるよう頼むと、老夫婦は国栖魚(くずうお)と根芹(ねぜり)を出す。その残りを賜った老人は、吉凶を占うべく国栖魚を川に放つと見事生き返ったので、都に還幸になる吉兆だと喜ぶ。
そこへ、追っ手(オモアイ、アドアイの2人)がかかり、老夫婦は、伏せた舟の中に天皇を隠し、巧みに追っ手を欺いて追い返す。天皇はその忠節に感じ入り、老夫婦は感涙にむせび、姿が見えなくなる。(中入)
やがて、天女(後ツレ、面は小面=こおもて)が現れて舞を舞い、次いで吉野山の守護神・蔵王権現(後シテ、面は大飛出=おおとびで)が登場して天皇の御代を寿(ことほ)ぐ。
世阿弥がつくった能と比べると、この作品は登場人物が多い。老人と追っ手の気迫のこもった問答は前場の最高潮。追っ手が迫っていることを知らせる「早鼓(はやつづみ)」という、はやしのテンポが急調になる演出もある。このように劇的で多彩な演出が加わりながら時代が下り、やがて歌舞伎につながっていく。演劇は常に工夫を重ねて変化していくが、その原点は「能」だといえる。
曲に登場する「国栖魚」はアユのこと。アユを漢字で書くと「鮎」。昔、神功皇后が戦勝など吉凶を占ったことに由来する。アユが生き返る場面は「鮎ノ段」といい、老人(面は尉=じょう)が生き生きとしたアユの躍動感を表現するのも見どころの一つ。余談だが吉野には歌舞伎や文楽で有名なアユ料理の店もある。
「鮎ノ段」。
老人が天皇に賜ったアユを川に放つと見事に生き返った。
前シテの見せ場(撮影・写真提供=秦晴夫さん)
能では高貴な天皇や英雄の役は、主にシテ方の子どもが務める。子どもだが、子どもの役だけでなく、大人の役も演じる。これを「子方(こかた)」という。
能「安宅(あたか)」の場合、シテは武蔵坊弁慶。子方は源義経を演じる。大人が演じるよりもシテが際立つという演出。弁慶に打ちのめされるのも、大人より子どもの方が義経の哀れさ、はかなさを強く訴えられるからだろう。子どもが大人の役を演じるというところが面白い。子方は、座ったままか、せりふも一言二言のことが多い。だが「国栖」では老人が機転を利かせて天皇を隠す場面で、作り物の舟に身を隠すという動きがあるのが珍しい。
世阿弥は京の今熊野(いまくまの)の演能で子方を務めたとき、見物に来ていた3代将軍・足利義満に見いだされ、父・観阿弥とともに躍進するきっかけになった。「申楽談儀(さるがくだんぎ)」によると、この時、世阿弥は12歳。幼い者特有の素直な演技は、熟練の大人とは違う趣があったのだろう。
当時都では、鎌倉期の北条氏から庇護されていた「田楽能」が主流だった。一方、京周辺の寺社に勧進能で奉仕していた「猿楽能」の若手であった観阿弥にとって、この催しは一世一代の晴れ舞台。しくじるわけにはいかなかった。彼は苦心の末、猿楽の謡に拍子を中心とした「曲舞(くせまい)」を取り込むことに成功する。「観世の能」が表舞台に立った最大の功績者は、父・観阿弥である。(藤田早希子)
追っ手が迫り、老夫婦は天皇(子方)を作り物の舟の中に隠す。
このあとの老人と追っ手との緊迫したやりとりが前場を盛り上げる(同)
<能楽用語>
【浄御原の天皇】天武天皇のこと。流派によっては「王」とだけ記している謡本もある。史実ではまだ即位していないが、この曲を作った時、大海人皇子が天皇になっていたことをすでに知っている作者の忖度(そんたく)なのか、敬意を表したと思われる。
【小面】若い女性を表す。
【大飛出】霊力がある神様の役に用いる。金泥で彩られた特異な面。菅原道真公が雷神となって怒った姿といわれ、もともと切能の「雷電(らいでん)」のために考案された。大きく目玉が飛び出しているからこう呼ばれた。
【申楽談儀】正式名称は「世子六十以後猿楽談儀」。世阿弥(世子)が60歳以後、猿楽について語り、次男元能(もとよし)が聞き書きした能楽伝書。
【作り物】 演目によって簡素な舞台装置を使う。竹や木を用いた骨組みに布を巻いただけの装置で、家や宮殿といった建物、舟や牛車などの乗り物、井戸などを表す。
【田楽能】田植えを励ますことが起源の「田楽」に、京の公家が好む高貴な人物を登場させたり、歌舞音曲を工夫したりして、名手も多く抱えていた。
【猿楽能】「猿楽」は大きく二つに分けられる。一つは平安時代に都で盛行した猿楽。唐から伝わった「散楽(さんがく)」が源流で、滑稽な所作や言葉、曲芸幻術の類い。今、大河ドラマにも登場。もう一つは幾内およびその周辺の農村から発して南北朝以降、寸劇などの猿楽芸から劇形態の芸能(能)として発展した。
【観世】観阿弥の幼名「観世丸」に由来。
2024年3月2日付・奈良新聞に掲載