国原譜
わが国の宝ともいえる瓦葺(ぶ)き職人の…
わが国の宝ともいえる瓦葺(ぶ)き職人の山本清一さんが亡くなった。温和な表情ながら、眼光の鋭さは鬼気迫るものがあった。
たまたま生駒支社担当時代に、何度も自宅にお邪魔した。東大寺大仏殿の昭和大修理の時の瓦を手にしながら、その苦労話を語ってくれた。
その後も唐招提寺金堂や、国宝姫路城の修理などにも関わり、日本伝統瓦技術保存会の会長に就任したときは、真っ先に電話をいただいた。晴れ晴れとした声を思い出す。
終戦直後の15歳で、よく家業の瓦葺き業に就いた。「無学だから」とも言っていたが、本物の職人の前では、学歴など気にすることの薄っぺらさを痛感する。
だから褒章や叙勲の受章を心から喜んでいた。この道一筋の生き方が評価されたのだから、土と格闘してきた日々を思い出し、ひび割れた手をじっと見つめる姿に教えられた。
8年前に奈良新聞文化賞を受賞し、大変喜んでいただけた。仕事では妥協を許さぬ厳しい人だったと思うが、それが日本の伝統文化を守ってくれた。本物の職人が後に続いてほしいと思う。合掌。(治)
たまたま生駒支社担当時代に、何度も自宅にお邪魔した。東大寺大仏殿の昭和大修理の時の瓦を手にしながら、その苦労話を語ってくれた。
その後も唐招提寺金堂や、国宝姫路城の修理などにも関わり、日本伝統瓦技術保存会の会長に就任したときは、真っ先に電話をいただいた。晴れ晴れとした声を思い出す。
終戦直後の15歳で、よく家業の瓦葺き業に就いた。「無学だから」とも言っていたが、本物の職人の前では、学歴など気にすることの薄っぺらさを痛感する。
だから褒章や叙勲の受章を心から喜んでいた。この道一筋の生き方が評価されたのだから、土と格闘してきた日々を思い出し、ひび割れた手をじっと見つめる姿に教えられた。
8年前に奈良新聞文化賞を受賞し、大変喜んでいただけた。仕事では妥協を許さぬ厳しい人だったと思うが、それが日本の伝統文化を守ってくれた。本物の職人が後に続いてほしいと思う。合掌。(治)