国原譜
奈良市西九条町の平城京跡で奈良時代の小…
奈良市西九条町の平城京跡で奈良時代の小規模宅地が市教育委員会の調査で見つかった。平城京の区画「坪(町)」の16分の1の範囲を使ったもので、下級官人など庶民の家らしい。
それでも広さは800平方メートル以上で、主屋と離れ、蔵まである。現代の感覚では豪邸と言え、うらやましい限りだ。
ただ、住民の暮らしは決して楽ではなかったようだ。正倉院文書にある借用証書「月借銭解」には、下級官人の写経生が不動産を質物に借金した記録が残る。
「正倉院紀要第40号」掲載の栄原永遠男氏の研究によると、借金は月15%の超高金利。上司から厳しい融資要求もあり、借りては返す借金地獄だった。
今回の遺構と同じ「左京九条三坊」では「田部国守」「占部忍男」という名の写経生の借金記録が残る。2人とも宝亀3(772)年に土地建物を質に「500文」を借りている。
遺構の建物跡は時期が下るほど貧弱になる。家の住民は借金の形(かた)に土地建物を奪われて路頭に迷ったのかもしれない。発掘調査の現地説明会はきょう28日午前10時から開かれる。(法)
それでも広さは800平方メートル以上で、主屋と離れ、蔵まである。現代の感覚では豪邸と言え、うらやましい限りだ。
ただ、住民の暮らしは決して楽ではなかったようだ。正倉院文書にある借用証書「月借銭解」には、下級官人の写経生が不動産を質物に借金した記録が残る。
「正倉院紀要第40号」掲載の栄原永遠男氏の研究によると、借金は月15%の超高金利。上司から厳しい融資要求もあり、借りては返す借金地獄だった。
今回の遺構と同じ「左京九条三坊」では「田部国守」「占部忍男」という名の写経生の借金記録が残る。2人とも宝亀3(772)年に土地建物を質に「500文」を借りている。
遺構の建物跡は時期が下るほど貧弱になる。家の住民は借金の形(かた)に土地建物を奪われて路頭に迷ったのかもしれない。発掘調査の現地説明会はきょう28日午前10時から開かれる。(法)