国立研究開発法人産業技術総合研究所

「遅い」のに高効率な情報処理技術を開発

生体神経組織の動作を模倣した低消費電力なトランジスタの動作実証に成功

ポイント
・ 固体中のイオンの動き制御により生体神経組織の動作を模倣できる低消費電力な素子を実証
・ ゆっくりとした素子動作でありながら高効率な情報処理を実現できることを明らかに
・ 非常に小さな電力で動作するエッジデバイスへの活用に期待

【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202411250536-O1-68eV8TL8

概 要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)電子光基礎技術研究部門 強相関エレクトロニクスグループ、井上 悠 研究員、井上 公 上級主任研究員と、国立大学法人 東京大学、国立大学法人 九州大学、兵庫県公立大学法人 兵庫県立大学、国立大学法人 名古屋工業大学は共同で、生体神経組織の動作を模倣する低消費電力なトランジスタの動作実証に成功しました。

生物の脳は生活環境での遅い入力信号を効率よく処理することを得意とします。こうした特徴(ゆっくり動作、超低消費電力)を人工素子で模倣することで、超低消費電力な情報処理に道を拓けると考えられますが、これまで両者の特徴を両立させるのは困難でした。今回、固体中に存在する電荷を持ったイオンを巧みに制御することによって、入力信号をゆっくりと時間変化する出力信号に変換する新概念のトランジスタを開発しました。チタン酸ストロンチウムをチャネルに用いたこのMOSトランジスタは、イオン制御を動作原理とすることでシリコンを用いた従来のMOSトランジスタと比べて100万倍以上もゆっくりと動作するという特徴を持ちます。そして、500 pWという非常に小さな電力で動作できることを実証しました。非常に長い時定数(入力電圧に対して出力電流が変化する時間スケール)を持つ生体神経組織の動作を模倣できるこのトランジスタの動作実証は、生体のように超低消費電力で複雑な学習と推論ができるエッジデバイスの実現に貢献します。

なお、この技術の詳細は、2024年11月27日(米国東部時間)に「Advanced Materials」に掲載されます。

下線部は【用語解説】参照

開発の社会的背景
近年、生成AIなど、大規模計算、クラウド型の情報処理が注目される中、誰もがどこでも利用できて、安全が保障された情報社会の実現には、エッジデバイスでも十分に動作できる低消費電力・高効率な情報処理能力が必要です。MOSトランジスタは高速動作に適しているため、情報処理素子として広く利用されています。これまではMOSトランジスタの微細化により、省電力化と小型化の開発が続けられてきました。

しかし、微細化技術は限界を迎えつつあり、より小型で、電力効率に優れた情報処理の実現には、異なる原理に基づいた情報処理技術が求められています。

そこで、情報処理系としての生体に目を向けてみると、非常に高効率な情報処理を行っていることがわかります。生体神経組織は、MOSトランジスタと比べて100万倍以上もゆっくりと動作し、1 pW(ピコワット、ピコは1兆分の1)以下のわずかな電力しか消費しません。生体神経組織を人工素子で模倣できれば、超低消費電力な新しい情報処理に道を拓けると考えられますが、これまでの技術ではゆっくりとした動作と小さな素子面積、小さな電力消費を両立させるのは困難でした。

研究の経緯
産総研は、機能性材料の分野において、物質中で起こるさまざまな物理現象を素子として応用することを目指しており、特に酸化物材料の作製技術や評価技術、素子化技術を開発してきました。今回、これらの技術を応用することで、生体神経組織の動作を模倣するトランジスタの動作実証に成功しました。

なお、本研究開発は、国立研究開発法人科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業 CREST 「スパイキングネットによるエッジでのリアルタイム学習基盤(2019~2024年度、JPMJCR19K2)」による支援を受けています。

研究の内容
生体神経組織は、リーク積分と呼ばれる振る舞いで、外部から入力されるパルス状の信号を内部でゆっくりと時間変化する信号に変換します。図1(a)にリーク積分動作の概念図を示します。パルス信号が入力されるたびに、膜電位と呼ばれる内部変数がゆっくりと上昇していきます。パルス信号が来ないときは、膜電位は徐々に減少していきます。

従来の方法で生体神経と同じくらいの時定数を持つリーク積分を実現するには、図1(b)に示すように、1 µF(マイクロファラド、静電容量の単位の1つ)ものコンデンサーと100 kΩ(キロオーム、電気抵抗の単位の1つ)もの抵抗器が必要になります。この方法では回路面積が大きくなるだけではなく、抵抗器に流れる電流で無駄な電力消費が生じてしまいます。今回の技術は、外から印加する電圧により酸化物固体中の酸素欠損イオンを制御する方法で、電力を無駄にせずリーク積分を模倣できることを実証しました。

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図2(a)に今回動作実証を行ったトランジスタの模式図を示します。酸化物半導体である、チタン酸ストロンチウムをチャネルとした、MOSトランジスタです。ゲート電極(G)に印加した電圧に応じて、ソース電極(S、電子の湧き出し口)とドレイン電極(D、電子の吸い込み口)の間を流れる電流(ドレイン電極からソース電極へと流れる)が変化します。従来のトランジスタと異なり、チャネル部分に酸化物半導体を用いているので、素子中に存在する酸素欠損イオンを素子動作に利用することができます。

図2(b)でゲート電極(G)に電場を印加したときの酸素欠損イオン分布の有限要素法による解析結果を示します。電場を印加すると、正の電荷を持つ酸素欠損イオンがチタン酸ストロンチウム層の下部に移動していき、それと同時にチタン酸ストロンチウム層上部表面付近で酸素欠損イオンが生成されます。この時、移動速度はゲートへの電場強度に依存するため深さ方向に速度分布が生まれ、チタン酸ストロンチウム層上部表面付近の酸素欠損イオン濃度が時間とともに上昇していきます。酸素欠損イオン濃度が増加すると、電子濃度も上昇し、酸化物中で電流が流れやすくなります。この時、ソース電極(S)・ドレイン電極(D)間に流れる電流は、パルス状の電場入力に対して、ゆっくりと時間変化する信号として取り出すことができます。酸素欠損イオンは酸化物中をゆっくりと移動するので、生体神経のような長い時間変化を容易に生成できます。さらには、蓄電池が充電と放電を繰り返すことができるように、イオンの移動自体は可逆な過程なので、ゆっくりとした動作でも非常に小さな電力で動作する潜在的な可能性を持っています。

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図3に、実際の電流波形の測定結果を示します。速いパルス(入力周波数の増加時)を入力したときは、出力される電流の振幅が徐々に増加していきます。一方で、遅いパルス(入力周波数の減少時)を入力したときは、出力される電流の振幅が徐々に減少していきます。このように、入力されるパルスに応じて電流の振幅がゆっくりと変化する「リーク積分動作」の実現に成功しました。周波数依存性の解析から、この素子は生体神経と同等程度の長い時定数を持つことがわかりました。この時の消費電力は500 pWと非常に小さく、酸素欠損イオンを制御することで高効率なリーク積分動作が実現できることを示しました。素子の書き込みと読み出しを独立に行うなど、回路への実装方法を工夫することで、さらなる低消費電力化が期待できます。

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今回動作実証を行ったリーク積分トランジスタは、人工的に生体神経系の動作を模倣したニューラルネットワークの構築に適しています。ニューラルネットワークでは例えば、AさんとBさんが書いた図形の筆跡から、それを誰が書いたものかを当てる、「筆跡の異常検知」を行うことができます(図4(a))。開発した素子を想定したシミュレーションで、筆跡の異常検知の検証実験を行った結果を図4(b)に示します。ここではランダムに接続された256個のニューロンとシナプスからなるニューラルネットワークを想定して、リザバー計算という枠組みで学習と推論を行っています。ニューロンは生体ニューロンのリーク積分発火を、シナプスは生体シナプスの振る舞いをプログラムでエミュレートしています。ニューロンとシナプスの動作には、素子の時定数を用いています。Aさんが書いた三角形の筆跡を学習させた上で、BさんとAさんの筆跡を入力すると、Bさんの筆跡を入力したときだけ「他人とみなせる度合」が大きくなり、筆跡の異常検知が成功していることがわかります。しかし、開発した素子より10万倍速い素子を想定したシミュレーションでは、筆跡の異常検知は失敗します。このシミュレーション結果は、筆跡の異常検知には、過去のペンの位置や図形を描く速度など、過去に関する情報が必要ですが、ゆっくりと動作する素子ほど、長期間にわたって情報を保持しておくことが可能であるためと解釈できます。このように、ヒトと相互作用するような情報を処理するニューラルネットワークでは、素子の遅さが動作に重要な役割を果たすことを示しました。

開発したリーク積分トランジスタと今回得られた素子動作速度に関する知見は、生体神経系のように「遅い」ということを積極的に利用した低消費電力な情報処理の実現に役立ちます。

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今後の予定
開発したトランジスタを用いたニューラルネットワークの構築により、小さな電力でも動作する、エッジデバイス向けの情報処理基盤の構築を実施します。例えば環境発電でも十分に動作できるウェアラブルデバイスなどを開発します。

また、将来的にはクラウドを使わずにエッジデバイスで完結するAIなど、小型化や、セキュリティの確保、自律動作が要件となるデバイスへの応用を目指します。

発表者・研究者等情報
産業技術総合研究所 電子光基礎技術研究部門 強相関エレクトロニクスグループ
井上 悠 研究員
井上 公 上級主任研究員
鬼頭 愛 テクニカルスタッフ

東京大学
国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
田村 浩人 特任研究員(研究当時)

大学院工学系研究科 附属システムデザイン研究センター
飯塚 哲也 准教授
ビャムバドルジ ゾルボー 助教
チェン シャンユ 特任研究員(研究当時)

九州大学 システム情報科学研究院 情報エレクトロニクス部門
矢嶋 赳彬 准教授

兵庫県立大学 大学院工学研究科 電気物性工学専攻
堀田 育志 教授

名古屋工業大学情報工学類
(兼 東京大学 国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 連携研究員(研究当時))
田中 剛平 教授

論文情報
掲載誌:Advanced Materials
論文タイトル:Taming Prolonged Ionic Drift-Diffusion Dynamics for Brain-Inspired Computation
著者:Hisashi Inoue, Hiroto Tamura, Ai Kitoh, Xiangyu Chen, Zolboo Byambadorj, Takeaki Yajima, Yasushi Hotta, Tetsuya Iizuka, Gouhei Tanaka, Isao H. Inoue
DOI:10.1002/adma.202407326

用語解説
生体神経組織
生体で情報伝達や判断、筋肉を動かす機能などを担う組織の総称。代表的なものにニューロンと呼ばれる細胞があり、これらの組織が複雑なネットワークを構成することで生体のさまざまな機能を担う。

トランジスタ
外部から入力した電圧や電流に応じて、素子を流れる電流を制御するスイッチング素子。パーソナルコンピューターやスマート
フォンなどに含まれる中央情報処理装置はトランジスタを最小構成要素として構成されている。

MOSトランジスタ、ソース電極、ドレイン電極、ゲート電極
Metal Oxide Semiconductorトランジスタの略称で、トランジスタのうち、金属、酸化物絶縁体、半導体で構成されるものの総称。半導体として一般的にはシリコンが用いられる。ソース電極、ドレイン電極、ゲート電極という3つの電極を持ち、ソース電極とゲート電極の間に印加する電圧に応じて、ソース電極とドレイン電極の間に流れる電流が変化する。

エッジデバイス
スマートフォンやスマートウォッチなど、情報処理ネットワークの末端で動作する情報処理装置の総称。携帯性やどこでも使えるという性質を持たせるために、小型化や低消費電力化が求められる。

生成AI
深層学習というアルゴリズムを利用して、文章や画像、音声などを情報処理装置が自ら生成するプログラムの総称。代表的なものにOpenAI社のChatGPTなどがある。

クラウド
インターネットに接続された、スーパーコンピューターなど大規模な情報処理装置。ユーザーは、自身の端末からクラウドに必要な情報を送り、クラウドから情報処理の結果を受け取ることで情報処理を行う。

膜電位、リーク積分、リーク積分発火
生体細胞において、細胞膜によって隔てられた内外の電位の差のことを膜電位という。リーク積分はニューロンに入力が与えられたときの膜電位の振る舞いを形式化したモデルの1つ。膜電位は、入力が与えられている間はそれを積算するように増加していき(積分動作)、入力が与えられていないときはゆっくりと減少していく(リーク動作)。リーク積分が繰り返されて膜電位がある閾値に達すると、発火と呼ばれる動作で、パルス状の信号を発生する(リーク積分発火)。

酸素欠損イオン
開発したトランジスタに用いたチタン酸ストロンチウムは、酸素やチタン、ストロンチウムといった原子が規則的に並んだ結晶と呼ばれる構造を持つ。実際には、結晶中で酸素原子が抜けた穴ができてしまうことがあり、これを酸素欠損という。結晶中の原子が入れ替わることで、酸素欠損は結晶中を動き回ることができる。チタン酸ストロンチウム中では、酸素欠損は正の電荷を持ったイオンとして振る舞う。

有限要素法
物理量の空間分布を算出する数値計算手法。空間を多数の要素に区切り、各要素が従う方程式の解を数値的に求めることによって空間分布が得られる。

シナプス
ニューロンとニューロンの間で情報伝達を担う生体神経組織。一方のニューロンが発火すると、シナプス中で化学物質のやり取りが行われることで、他方のニューロンに情報が伝えられる。

リザバー計算
水の波紋やランダムに接続されたニューラルネットワークなど、ランダムな系の経時変化を利用して時系列データの演算を行う情報処理方法。入力信号は系の経時変化に変換され、その系から抽出した複数の異なる時間発展を適当な割合で足し合わせることで出力を得る。

環境発電
室温や振動、廃熱など、これまでは利用することが難しかった微少なエネルギーで発電すること。

 
プレスリリースURL
https://www.aist.go.jp/aist:j/press:release/pr2024/pr20241128/pr20241128.html

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