正史から消えた謎の古代豪族・葛城氏 - 大和酒蔵風物誌・第5回「裏百楽門」(葛城酒造)by侘助(その2)
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金剛・葛城山麓に残る土蜘蛛伝説
葛城酒造のその名が示しているように、蔵のある金剛・葛城山麓一帯は古来「葛城」と呼ばれている。この辺りには土蜘蛛(つちぐも)伝説がある。神武天皇がこの地を征服する過程で強く抵抗する地元勢力があって、大和政権はこれを土蜘蛛と呼んだ。
神武天皇は葛(かずら)のつるで編んだ網でその土蜘蛛一派を一網打尽にしたことから、この地を「葛城」と呼ぶようになったという話が日本書紀に伝わる。実際、葛城山麓にある葛城一言主神社の境内には、土蜘蛛を頭と胴と足に切断して埋めたという「土蜘蛛塚」があるし、そこから南に下った金剛山中腹の高天彦神社にも同じく「土蜘蛛塚」や土蜘蛛がいたとされる「土蜘蛛窟」がある。
葛城一言主神社の土蜘蛛塚
また、少し時代は下るが、「土蜘蛛」という能の演目があって、こちらの土蜘蛛は鬼退治のヒーローである源頼光一派に退治されるが、その舞台は京都でありながら、土蜘蛛は自らを「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり。」と称する。土蜘蛛伝説については、この地に限らず、「まつろわぬ民」、つまり為政者の意に沿わない土着の勢力の蔑称として日本全国に多くの伝説が残る。ただ、葛城のそれは、京都に出没する土蜘蛛がわざわざ自分の本拠地を告げる行為に象徴されるように、日本各地にある土蜘蛛伝説のなかでも、最も古くて由緒正しい土蜘蛛だとみなしていい。
葛城氏と天皇家の関係
およそ神功皇后から雄略天皇の時代、西暦でいうと4世紀頃から5世紀頃(非人間的な長寿を誇る歴代天皇の事蹟を記録する記紀の年代観とは異なるが)にかけて、この地は葛城氏が支配していた。歴代の天皇に娘を嫁がせ外戚として権勢を振るったが、雄略天皇によって滅ぼされて以降正史から姿を消したので、しばしば謎の豪族といわれる。それでも、この200年ほどは天皇家と勢力を二分するほどの有力豪族であったことはほぼまちがいない。
その始祖といわれる葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)に関する記述が日本書紀に残っている。そこに登場する襲津彦は、天皇の使いや戦争のために朝鮮半島との間を往来する人物として描かれていて、そこから類推すると、かれが大和政権の外交を担当していたことが伺われる。そのなかで、かれが新羅を攻略した際に「俘人(ふじん)」を連れ帰り、葛城の4つの村に住まわせたという記述がある。
中国大陸と連なる半島には当時最先端の技術があって、渡来人はそれを日本に伝える役割を果たした。葛城氏のものとされる遺跡からは、鉄などの金属やガラス、韓式系土器や須恵器などが発掘され、かれらが渡来人を自分の膝元に置いて、その最先端の技術を享受していたことが推定される。それは、大和政権の国力を支える有力な手段となっただけでなく、政権内部での葛城氏の地位をさらに強固にしたと想像するのは難しくない。かれらは、天皇家の外戚であるという地位と最先端の技術力を背景に、この葛城の地で確固たる勢力を保っていた。
金剛葛城山系を望む(右が葛城山、左が金剛山、左手前は葛城襲津彦のものといわれる宮山古墳)
応神天皇(15代)が襲津彦の妹を妃として迎えて以降、葛城氏系の天皇が続くが、允恭天皇(19代)の代になってその関係に異変が生じる。兄の反正天皇(18代)が亡くなった際に、允恭は襲津彦の孫(息子との説も)の葛城玉田宿禰(たまだのすくね)にその葬儀を取り行うように命ずる。ところが、玉田宿禰は任務を怠り葛城に帰って男女を集め酒宴にふけっていた。これが露見し允恭の逆鱗に触れ、玉田宿禰は殺される。
さらに、允恭の子である安康天皇(20代)は、弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子(後の雄略天皇)の妻に、叔父に相当する大草香(おおくさか)皇子にその妹草香幡梭(はたび)皇女を迎えたいと申し入れるが、大草香の快諾の返事を使者が偽って拒絶したと報告。それを信じた安康は大草香を殺してしまう。さらに、かれは、当初の思惑どおり草香幡梭皇女を大泊瀬の妻とするだけでなく、大草香の妻だった中蒂姫(なかしひめ)皇女を奪って皇后に立てた。中蒂姫には大草香との間に眉輪(まゆわ)王という息子がいて、中蒂姫は息子を連れて安康の皇后となったが、眉輪王は、父の仇である安康が皇后の膝で眠っているときに襲って殺してしまう。
これを知った大泊瀬皇子は、安康とは別の二人の兄を疑い事情を問い詰めるが、要領を得なかったのでひとりを殺し、身の危険を察知したもうひとりの兄は、眉輪王とともに葛城円(つぶら)大臣の館に逃げ込んだ。この円大臣が玉田宿禰の息子で、かれらの引き渡しを求める大泊瀬に、円大臣は娘の韓媛(からひめ)と領地の一部を割譲する代わりに許しを請うた。だが、大泊瀬は許さず、結局館ともども三人を焼き殺してしまう。こうして葛城宗家は滅亡する。
その後、大泊瀬は雄略天皇(21代)として即位するが、雄略は、それまで豪族との協調体制のなかで王権を維持してきた天皇家が中央集権化するきっかけをつくったとする説がある。もしそうだとすれば、その即位と相前後して葛城氏が断絶したというのはいかにも象徴的だ。天皇家と葛城氏が協調関係にあったことはまちがいないとしても、いつのまにかそれが一触即発の緊張関係に変質していったことは、これらのエピソードからもよくわかる。天皇家にとって、少なくとも雄略の生きた時代には、葛城氏は「まつろわぬ民」としての土蜘蛛だったのかもしれない。土蜘蛛塚のある葛城一言主神社が葛城氏に深い所縁があるとされるのもそれを傍証する。
高天彦神社の土蜘蛛塚
ただ、現代人の目からすれば不思議としかいいようがないが、雄略は、自分が滅ぼした円大臣の娘韓媛(からひめ)を妃とし、彼女との息子を皇太子(後の清寧天皇)とした。他に幾人も皇子がいたにもかかわらずである。その意味では、宗家は滅びても葛城氏系の天皇が続いたことは事実である。
しかも、清寧天皇(22代)の後も、顕宗天皇(23代)、仁賢天皇(24代)と二代にわたって葛城氏出身の母をもつ。そして、仁賢は、雄略と、葛城氏とは所縁のない妃との間に生まれた娘を皇后にしたので、その息子の武烈天皇(25代)にいたって葛城氏系の天皇は途絶える。
ただ、皮肉なことに、この武烈には子がいなかったので、応神天皇の5世の子孫の継体天皇(26代)を越前から呼び戻して、仁賢の娘を皇后とすることで辛うじて皇統を保持した。そんな背景から、皇統は武烈でいったん断たれ、継体からのそれは別の皇統だとする説もあるが、少なくとも天皇家の転機が葛城氏の存亡と時を重ねているのは確かで、両者のあいだに、対立を越えてもなお切れない絆があったことを伺わせる。それがどんなものだったか、この豪族についてその後の正史はほとんど語らないので、それは今も謎としてとどまっている。(その3に続く)
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