この秋訪ねたい義経伝説の地12選【大和編】 - ことなら。2022年秋 古都、奈良を旅しよう。
奈良に息づく義経伝説
忠義、別れ、はかない最期…県内に残る足跡たどる
源平争乱期の悲劇のヒーロー、源義経。軍略の天才、兄との確執、弁慶ら家臣の忠義、愛する静御前との別れ、そしてはかない最期|。そんな義経にまつわる伝承は全国各地に存在しているが、奈良県内にもゆかりの伝説が数多く残る。
奈良新聞デジタルでは「奈良に息づく義経伝説」と題して、義経の奈良県内での足跡をたどって掲載した。今回は、全10回連載した一部を紹介する。
義経一行が潜伏
吉水神社(吉野町)
義経や静御前ら一行を5日間かくまったと伝わる吉水神社
兄・頼朝との不和により京都から追われた義経一行を5日間かくまったと伝わる。日本最古とされる書院には、義経や静御前が過ごしたと伝わる「義経潜居の間」や弁慶が見張りをしながら主君・義経を追手から逃す秘策を思案したと伝わる「弁慶思案の間」がある。
義経や弁慶らの遺品と呼ばれる宝物も所蔵し、書院で公開している。
◇吉野町吉野山579
◇交通/近鉄吉野駅よりロープウェイ「吉野山駅」下車徒歩約20分
◇開門時間/9時~17時
◇書院拝観料/大人600円、中高生400円、小学生300円
◇問い合わせ/電話:0746(32)3024
追っ手から隠れる
義経かくれ塔(吉野町)
義経が隠れたと伝わる「義経隠れ塔」
吉野山の最高峰、青根ケ峰(標高858メートル)に近い金峯神社のそばにたたずむ。本来は三重塔だったが、その後一重塔となり、明治時代に焼失して現在の形に再建された。
別名「蹴抜けの塔」。義経が追っ手の襲来から逃れるため、塔の屋根を蹴破って外に出たという。塔は修験修行場の一つとされ、真っ暗な堂内で歌を唱えながら回り、突然のかねの音に驚くことで俗気を抜くとして、蹴抜けの塔は「気抜けの塔」に由来しているよう。
◇吉野町吉野山1651(金峯神社)
◇交通/近鉄吉野駅よりロープウェイ「吉野山駅」下車徒歩約2時間
「狐」の霊を祭る
狐忠信霊碑(吉野町)
芸能の神として祭られている「狐忠信霊碑」
兄・頼朝からの追討を受け吉野山に逃れた義経一行だが、同山の衆徒(僧兵)が義経捜索に乗り出した。押し寄せる衆徒らに対し、活躍したのが義経の忠臣・佐藤忠信。主君を逃すため身代わりとなって1人迎え撃ち、高台の「花矢倉」から矢を浴びせた。
忠信は、歌舞伎や浄瑠璃の人気演目「義経千本桜」で活躍する「狐忠信」のモデルとなったことでも知られ、蔵王堂から脳天大神へと下る長く急な石段の途中に、1963年に芸能の神として祭られた碑が建立された。
◇吉野町吉野山
◇交通/金峰山寺より脳天大神へ向かう石段途中
静御前が舞を披露
勝手神社跡(吉野町)
勝手神社の境内にある静御前の「舞塚」
舞の名手として知られる静御前が、吉野衆徒に請われて舞を披露したと伝わる。社殿は2001年の火災で焼失。境内に静御前の「舞塚」がひっそりと立つ。
頼朝追討を受け吉野山に逃れた義経一行は、吉野山より奥、大峰の山々へ向かうが、女人禁制のため、愛する静御前に金銀財宝を渡して、京へ逃した。義経との別れに悲しみ泣いた静御前は、義経を追ってきた吉野衆徒に捕らえられた後に舞を舞ったという。
◇吉野町吉野山2354
◇交通/近鉄吉野駅よりロープウェイ「吉野山駅」下車徒歩約20分
難所を乗り越え
蜻蛉の滝(川上村)
「義経記」に登場する難所「白糸の滝」と推定されている「蜻蛉の滝」
吉野山の衆徒に追われ、大峰へと逃れた義経だったが、室町時代の軍記物「義経記」では「ここに難所一つあり。吉野川の水上(みなかみ)白糸の滝とぞ申しつける」と難所に遭遇した場面が描かれ、これが「蜻蛉(せいれい)の滝」と推定される。
落差は約50メートルの滝。同記では、対岸の竹に飛び移って何とか難所を乗り越える義経らの姿を描写している。
◇川上村西河
◇交通/近鉄大和上市駅よりコミュニティーバス「西河」下車徒歩30分。駐車場あり
鎧脱ぎ捨てた伝承
義経鎧岩(川上村)
義経一行が鎧を脱ぎ捨てたと伝わる「義経鎧掛岩」
義経一行が着ていた鎧(よろい)を脱ぎ捨てたと伝わる。吉野川が大きく屈折する部分にそびえたつ壮大な岸壁で、壁面には「吉野林業の父」と呼ばれる同村の偉人、土倉庄三郎を顕彰する磨崖碑が刻まれている。
鎧岩のある大滝地区には、義経が大滝の兵部という郷士の家にしばらく隠れていたところ、吉野衆徒の追撃を受け、兵部は義経を先導して吉野川を渡って逃がした。その際に義経から形見として太刀を受け取り、以来兵部の家を「太刀屋」と称したという言い伝えも残る。
◇川上村大滝
◇交通/近鉄大和上市駅よりコミュニティーバス「大滝」下車徒歩すぐ
義経・常盤弔いの寺
妙香寺(宇陀市)
義経の娘妙香禅尼が義経と常盤を弔い創建したという妙香寺
義経の娘・妙香禅尼が父義経と祖母常盤を弔ったのが始まりと伝わる。
義経の母常盤御前は、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)に仕える下級の女官、雑仕女(ぞうしめ)で、源氏の棟梁、源義朝の側室となった。今若、乙若、牛若(後の義経)を出産したものの、義朝が命を落とすと、追われる身となり3人の子どもを連れて京から逃亡。「義経記」には「大和国宇陀郡きしのをかと云う所に外戚の親しき者あり」として、宇陀市菟田野へ逃れたと伝わっている。
その常盤が身近に置いた念持仏とされる地蔵菩薩像が、同寺で現在も保管されている。
◇宇陀市菟田野下芳野755
◇交通/近鉄榛原駅より奈良交通バスで東吉野村方面へ「松井橋」下車徒歩25分
常盤が休憩した石
常盤御前腰掛石(宇陀市)
常盤御前が座ったという「常盤御前腰掛石」
常盤御前が3人の子どもと共に京より逃れ、現在の宇陀市菟田野下芳野へと向かう道中に休憩したと伝わる石。
石に座ると当時の常盤御前と尻同士が合うので、そこから常盤御前と“知り合い”になれるという伝承もあるそう。ただ、道路際に石を動かした時に、石の見栄えが良いと裏返しに置いたという話も。
◇宇陀市菟田野松井
◇交通/近鉄榛原駅より東吉野村方面へ「松井天神社」下車徒歩約3分
義経が植えた桜?
八坂神社の義経桜(宇陀市)
大宇陀守道で大切にされている「義経桜」(鳥居の左)
先祖代々八坂神社の神主をしていたという家には、義経が吉野山へ逃げ延びる道中、家で宿を取ったお礼に植えられた桜と伝えられている。
「大宇陀町史」(1959年)には、義経が吉野山へ落ち延びる途中に立ち寄り、神に加護を祈念して宮を建立しようとし、この場所の地名を問われ「モチ村」と答えたが文字がなく、以後「守道」という字を充てるようになったと、八坂神社の棟札に書かれた創建由来を記している。
◇宇陀市大宇陀守道684
◇交通/近鉄榛原駅より車で約15分
義経出生の地か
不浄の森(奈良市)
常盤御前が牛若丸を出産したという伝説が残る「不浄の森」
一般的に義経出生地は京都とされるが、「大柳生村史」(1958年)によると、京から逃れた母常盤御前がこの森を通った際に産気づき、生まれた男の子が牛若だったという。
常盤が産衣などを付近に求めたが断られ「ああ、不自由な」と嘆いたので「不自由の森」という名が付いたと伝わる。また「常盤の森」とも呼ばれている。
◇奈良市大柳生町
◇交通/JR・近鉄奈良駅より奈良交通バス「大柳生口」下車徒歩約5分
静御前が余生送る
静御前記念碑と笠神明神(大和高田市)
大中公園に建立されている「静御前記念碑」
現在は石園坐多久蟲玉神社境内で祭られている笠神明神
静御前の母磯野(いその)禅尼の故郷が大和高田市磯野で、静が余生を送った地とも言われ、同市中央部に位置する大中公園には静御前記念碑が建立されている。
また静が病の平癒を願って参拝したとされるのが笠神明神。現在は式内社の石園坐多久蟲玉神社(龍王宮)に移され祭られている。
〈静御前記念碑〉
◇大和高田市大中
◇交通/近鉄高田市駅から徒歩約10分
〈笠神明神〉(石園坐多久蟲玉神社境内)
◇大和高田市片塩15の33
◇交通/近鉄高田市駅より徒歩約3分。駐車場あり
◇問い合わせ/電話0745(52)6855
忠臣に化けた狐祭る
源九郎稲荷神社(大和郡山市)
歌舞伎役者も参拝する源九郎稲荷神社
もとは奈良県中央部を流れる吉野川のほとりで、義経の守護神・白狐を祭ったのが始まりと言われる。その後、大和郡山に入った豊臣秀長が城の守護神として迎えたと伝わる。
また歌舞伎の人気演目「義経千本桜」で義経の忠臣忠信に化けた狐が「源九郎狐(狐忠信)」。追われる義経を何度も助けたことで源九郎の名を贈ったという伝説が残る。
◇大和郡山市洞泉寺町15
◇交通/近鉄・JR郡山駅より徒歩約10分
◇問い合わせ/電話0743(55)3830
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このほかにも奈良県内には義経にまつわる伝説が残る場所が各所にあり、連載ではより詳しく紹介している。気候も穏やかな秋の1日、往時の義経らに思いをはせながら散策してみては。
奈良新聞デジタル掲載の連載はこちらから。
協賛(順不同)
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