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1300年連綿と続く天皇即位の儀式 大嘗祭 - ガストロノミーツーリズム世界フォーラム

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安寧・五穀豊穣を祈る

大嘗宮跡の遺構を確認
奈良ゆかりの儀式、歌舞

 毎年11月下旬、新穀を神々に供え、天皇自らも共に食することで国家・国民の安寧と五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)。中でも天皇が即位後、初めて執り行う新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)と呼ばれる。自然災害の多い列島で暮らす人々のため、天皇が収穫に感謝し、祈りをささげる宮廷祭祀(さいし)だ。皇位継承に伴う一世に一度の重要儀式とされ、古くから行われてきた。そこには稲作を中心として暮らしを営む日本の歴史と文化が凝縮されている。

 

 

平城宮朝堂院で大嘗宮跡を発見

 古くは毎年行われる新嘗祭と一世一代の大嘗祭の区別はなかったが、673年11月、飛鳥浄御原宮(明日香村)で即位した天武天皇が皇位継承儀式として新嘗祭と区別して大嘗祭を行ったとされる。以来、戦乱が続き経費の調達が困難だった戦国時代から江戸時代前期までの例外を除き、大嘗祭は続けられてきた。

 

 大嘗祭のためだけに設営され、儀式が終わると取り壊される社殿が大嘗宮。その宮の痕跡は、約1300年前にさかのぼる奈良時代の平城宮(奈良市)の跡で見つかっている。

 

 東区朝堂院朝庭部で1984、85(昭和59、60)年に実施された発掘調査とその後の研究で、5期にわたる建物群の遺構を確認。第一次大極殿院のすぐ南側、中央区朝堂院朝庭部の調査でも2004年の調査で、1期分の遺構が発見された。

 

東区朝堂院朝庭部の大嘗宮の遺構表示=奈良市の平城宮跡

 

 

 平安時代の儀式書「儀式」や「延喜式」によると、大嘗宮には東の悠紀院(ゆきいん)と西の主基院(すきいん)を東西対称に配置。それぞれの正殿の南側に御厠(みかわや)、北側に精米する臼屋(うすや)と米を炊く膳屋(かしわや)が設けられたという。

 

 平城宮跡の東区と中央区の朝堂院朝庭部で確認された遺構はまさに、それら史料の記述と配置が一致。どちらの検出遺構も東の悠紀院に当たるとみられ、朝庭部の中軸線を折り返した西側に主基院の遺構が展開すると考えられている。

 

 「続日本紀」では、大嘗祭は太政官院で営まれたとの記述もみられ、渡辺晃宏・奈良大学教授(日本古代史)は「当初は役所の庭で行われたと考えていたが、太政官院は朝堂院のことだと分かりました」と語る。

 

 朝堂院の庭は従来、何もない広場のような場所と考えられていた。そこで発見された大嘗宮の遺構。渡辺教授は「通常なら発掘をしないような場所。古代の宮廷儀礼を知る上で有意義な調査になった」と述べる。古代の大嘗宮の実態を知る上でも貴重な成果となった。

 

 奈良時代に即位した天皇は、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武の7代。続日本紀によると、孝謙については「南薬園新宮(みなみのやくえんのしんきゅう)において大嘗す」とあり、平城宮の外で大嘗祭が営まれたようだ。そのため平城宮跡で見つかった6時期の遺構は、孝謙を除く6代の天皇の大嘗宮の遺構と考えられている。

 

 中央区の遺構は称徳のものとみられている。称徳は位が太上天皇で、住まいする宮殿は「西宮」と呼ばれた。西宮の位置は議論があったが、大嘗宮跡が確認されたことで第一次大極殿の跡地に置かれていたことが確定した。渡辺教授は「平城宮の構造を考える上でも大きな意味を持った」と振り返る。

 

 

「蔵酒司」跡から大嘗祭示す木簡

 「儀式」などでは、悠紀院と主基院の北側に、天皇が控えて潔斎をする湯屋として用いる廻立殿(かいりゅうでん)が存在する。ただ平城宮跡では廻立殿に相当する遺構は確認されていない。

 

 渡辺教授は大嘗宮の遺構のすぐ北側に内裏が存在する点に注目する。内裏は天皇の住まいで、「内裏に戻って潔斎できたのではないでしょうか」と推測する。

 

渡辺晃宏・奈良大教授

 

 

 平城宮跡の東区朝堂院朝庭部では現在、発掘調査で明らかになった光仁天皇(771年即位)の大嘗宮の遺構をレンガを用いて地表に表示。宮内での位置関係や、正殿と御厠、膳屋、臼屋の配置を体感することができる。

 

 渡辺教授は「大嘗祭に関連するとみられる木簡も見つかっています」と話す。出土地点は平城宮跡の北東部、酒や酢を造る役所「蔵酒司(ぞうしゅし)」の跡。延喜式によると、蔵酒司は大嘗祭に供えるための植物を9種類準備していたが、それらと同じ植物名を記した木簡が出土した。

 

 他の木簡の年紀と内容から、724(神亀元)年11月23日に行われた聖武天皇即位の大嘗祭に伴う木簡と考えられるという。

 

 

斎田点定の儀で波波迦木を献上

 大嘗祭は新穀を皇祖や天神地祇に供え、天皇自らも口にすることで、国家・国民の安寧と五穀豊穣を祈る。

 

 神饌(しんせん)のコメや、白酒(しろき)・黒酒(くろき)と呼ばれる酒をつくるための稲は、あらかじめト定(ぼくじょう=占い)で決めた悠紀、主基の両方の斎田(さいでん)で収穫されたものが用いられる。

 

 斎田の卜定にゆかりがあるのが、橿原市の香久山北麓、天香山(あまのかぐやま)神社。神火を移して亀の甲羅で占う際に、同神社境内にある「波波迦木(ははかのき=ウワズミザクラ)」が用いられる。2019年の大嘗祭でもコメの産地を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」の際に皇居・宮中三殿に献上された。

 

 大嘗祭の一連の儀式の中では、応神天皇の故事に基づく「国栖奏」や神武天皇伝承に由来する「久米舞」、天武天皇にまつわる「五節舞」といった奈良にゆかりの歌舞も舞われる。大嘗祭後には、天皇陛下が即位礼とともに無事に終えたことを橿原市の神武天皇山陵に報告する「親謁(しんえつ)の儀」がある。

 

令和の大嘗祭でも「斎田点定の儀」の際に献上された波波迦木=橿原市南浦町の天香山神社

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