復興の歴史刻む大和一国を治めた大寺 - 興福寺・大和古社寺巡礼 008
興福寺(山階寺・厩坂寺)
※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。
山城国(京都府)の山階寺を前身寺院とし、飛鳥の厩坂寺を経て平城京遷都とともに奈良に遷(うつ)って興福寺となった古代寺院で、南都七大寺のひとつ。中世には守護に代わって大和一国を治めました。
エリア/奈良市
ご本尊/釈迦如来(中金堂、江戸時代)
ご霊験(ご利益)/諸願成就
宗 派/法相宗
ご由緒
大化の改新で知られる藤原鎌足が維摩会(ゆいまえ)を開いたとされる山背の陶原(すえはら)の家がルーツとされ、鎌足の妻・鏡女王が、鎌足の病気回復を願って釈迦三尊像を祀(まつ)るために天智8(669)年に創建した山階寺(現・京都市山科)を前身寺院とし、その後、飛鳥の地に遷り厩坂寺(うまやさかでら)となりました。
和銅3(710)年の平城京遷都に際して、法興寺や薬師寺などとともに奈良の都に遷り、藤原不比等によって寺号を興福寺と改められました。そして法相宗の義淵に師事し唐に渡った僧・玄昉が興福寺に住し、法相教学が興隆しました。
平安時代には大和国内のほとんどの荘園領主となって大和一国を治め、鎌倉幕府・室町幕府も大和国には守護を置かず、興福寺の支配が続きました。興福寺は落雷や戦乱によって幾度も被災しましたが、その度に復興を果たしてきたという歴史がありました。
しかし明治時代の神仏判然令、廃仏毀釈(きしゃく)によって打撃を受け、興福寺の僧侶は春日大社の神官となるなど一時は荒廃しましたが、その後、日本文化が再認識されるなどの動きの中でやがて復興。平成10(1998)年には「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、平成30(2018)年には再建が進められていた中金堂の落慶法要が行われました。
『興福寺境内図(甲)』(江戸時代)には南大門をはじめ、中・東・西の金堂、五重塔、北円堂・南円堂などが具体的に描かれています。興福寺は数多くの子院を有する大寺院でした。
ご本尊
釈迦如来
中金堂の本尊は、仏教の開祖・釈迦牟尼仏。創建時には鎌足発願の釈迦三尊像が祀られていました。
境内参拝・気が付かなければ…
※📸は撮影ポイント
中金堂 📸
興福寺の中心的建物・中金堂は、平城京遷都や律令政治を勧めた藤原不比等が創建したと伝えられています。幾度かの再建を経て、現在の中金堂は平成30年に再建されたものです。
中金堂には、無著菩薩、世親菩薩、玄奘三蔵など法相宗の祖師を描いた「法相柱」(畠中光享画)も新たに復興されています。
興福寺(中金堂)の本尊は釈迦如来です。宝前では「南無釈迦牟尼仏」と称えて礼拝しましょう。
国宝館
阿修羅像などの八部衆や十大弟子像など数多くの仏教彫刻、絵画、工芸品に出会うことができる興福寺の国宝館。
国宝館は奈良時代の食堂(じきどう)の遺構の上に造られた建物で、現在も食堂の本尊であった千手観音菩薩立像に向かい、朝の勤行(ごんぎょう)や法要が行われています。
東金堂
東金堂(室町時代/国宝)は、聖武天皇の叔母であった元正太上天皇の病気平癒を願って、聖武天皇が建立された堂宇で、現在の建物は室町時代に再建されたものです。薬師如来坐像(重要文化財)を本尊として、日光・月光菩薩ほかをお祀りしています。
花の松
かつて東金堂の前には弘法大師お手植えと伝わる「花之松」があり、東金堂のご本尊にお供えする花とされていました。この花の松は戦前に枯れましたが、かつては記念の石碑も建てられていました。
五重塔
五重塔(室町時代/国宝)は、聖武天皇の御后・光明皇后の発願によって建立されました。現在の塔は応永33(1426)年頃の再建ですが、奈良時代の特徴を取り入れています。猿沢池から眺める五重塔は、南都を代表する景色のひとつとして知られています。高さは約50メートルで、令和5(2023)年から120年ぶりとなる大規模修理がおこなわれます。
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